2020年06月24日

光は光

”現在”を少しでも理解しようと最近の本をいくつか読んだ、あまり面白くなかった・・・

吉本隆明、レヴィストロースの本の数ページにも如かず・・・

吉本さんの言う往相と還相の還相の視線がない、
もしくは、山本先生の言うシニフィアンとシニフィエのシニフィアンが了解されていないということなのか・・・

最近は昭和の漫画を読んでいる、『アキラ』や『日出所の天使』は何度読んでも圧倒的だ、読み始めると頭の中すべてを持ってかれるような感じは何ともいえない・・・

思想・理論的なことでも、カルチャー(サブカルチャー)的なことでも、全貌を見ることさえ難しい山塊からプラトーへ、プラトーから砂山程度の起伏へー それが”現在”の特徴なのか・・・

ここ何か月、ポップ音楽を聴いても歌詞が入ってこないので、インストゥルメンタルばかり聞いていた、やはり昭和のY.M.O.のインストゥルメンタルはヘビーローテーションだった・・・

久しぶりに中村一義(100s時代)のアルバムOZを聞いた、歌詞がほかのミュージシャンと全然違う、宇宙人的だ・・・心がすさんでいるとき、なんともやるせないような気分の時に、ほとんど唯一聴けるミュージシャンかもしれない・・・

今のベストは「光は光」、意味不明といえば意味不明、変な歌詞といえば変な歌詞なのに、どうしてこう響いてくるのか・・・


”赤い星の光、爆発後の光。

この夜の光、過去から幾光年分の手紙。

ここから幾光年分の手紙。

青い星の光、若い星の光。

この夜の光、過去から幾光年分の手紙。

ここから幾光年分の手紙。

光には光。

あの闇でさえも、かき消すことはない未来。

互いを巡り回りゆく

世界を、まだまだ叫ぶんだ。

世界中に想いよ、もっと降れ。

Oh oh 世界中に想いよ、もっと降れ。
Oh oh 世界中に想いよ、もっと・・・この星の光。

この街の光。

で、君自身の光。


過去から幾光年分の手紙。

ここから幾光年分の手紙。

光には光。

あの風でさえも、吹き飛ばすことはない未来。

自然のプリズムが描き出す世界を、まだまだ叫ぶんだ。

世界中に想いよ、もっと降れ。

Oh oh 世界中に想いよ、もっと降れ。
Oh oh 世界中に想いよ、もっと・・・

時を超える概念を持つ想いを、さぁ、あなたに。

存在はもうないかも、だけど、今日、届くこの光のなかに・・・。


過去から幾光年分の手紙。

ここから幾光年分の手紙。

光+光。

あの虚無でさえも、包み込むことはない未来。

埃を払い、自分が持つ世界を、まだまだ叫ぶんだ。

世界中に想いよ、もっと降れ。

Oh oh 世界中に想いよ、もっと降れ。
Oh oh 世界中に想いよ、もっと、

世界中に願いよ、もっと、世界中に朝日よ、もっと降れ。”


「光は光」 詞:中村一義








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2020年04月17日

ワークシフト

『WORK SHIFT』リンダ・グラットン著は2012年に邦訳が出版されている。今から8年前。
当時からよく売れて話題になっていた本、遅ればせながら読んでみた。

本書ではまず、私たちの働き方(生活全般)を変える大きな要因を5つ挙げている

①テクノロジーの進化
 IT、AI、ロボットの進化など。これについては説明を要しないでしょう。

②グローバル化の進展
 自由主義経済の浸透、テクノロジーの進化、産業構造の変化などによって、先進国とされている地域以外にもアジア、南米、アフリカの国々が経済活動・労働提供のマーケットにおいてこれまで以上に重要な役割を担うようになる。IT産業などでは地理的な制約がなくなる一方、労働者の教育水準が新興国でも高まることで、これまで先進国がけん引してきたイノベーションの分野でも莫大な人口を抱える新興国が台頭してくる、など

③人口構成の変化と長寿化
出生率の低下、長寿化によって、超高齢化社会になる一方で若者の人口比率が少なくなる。
社会保障をどうするのか、という課題がより深刻になり、70歳をすぎても働くことが普通になってくる、など

④社会の変化
仕事より家庭における時間を大切にする傾向が進む、女性の社会進出、大企業や政府に対する不信感の増大、といったことが挙げられている。

⑤エネルギー、環境問題の深刻化
地球温暖化問題、プラスチックごみのもんだいなど、細かい説明は要しないでしょう。

これら5つの変化の要因を挙げたうえで、2025年に世界はどのようになっているか、何名かの架空の人物がどのように働き、生活をしているかが描かれている。一方は理想的なイメージに基づいて、一方は理想的でないイメージに基づいて。
社会の客観的な分析とそれに基づいた未来予想を、具体的な登場人物のふるまいから描くことで感覚的にイメージしやすくしている。

ざっくりといえば、漫然と未来を迎えた場合、上記の5つの要因によって、世界中の人たちの多くはより多忙で孤立した生活を送るようになったり、貧富の格差がより拡大したりと、現在もある社会的課題が拡張されて現れるとしている。
一方で、本書のテーマである3つのシフトを行った場合は、上記の5つの要因をプラスの方向で生かすことでより自由で充実した仕事・生活が実現できる、といった感じのシミュレーションが描かれている。

3つのシフトとは
①ゼネラリスト(広く薄い何でも屋)ではなく、スペシャリストたれ、それも1つの分野にとどまらず、できれば複数の分野において
②他者と協力してイノベーションを起こすべし
③情熱をかたむけられるような「経験」こそに価値を置くべし。高額なものを買うことがステータスであるような価値感は過去のものとなる

①について書かれていることで面白く思ったのは、スペシャリストたるために、中世の”ギルド”を参考にするべきだと述べている点。要するに昔の徒弟制度的な”職人”のやり方がこれから見直されるのではないかと。
専門的な技術、と漠然と言ってもいろいろあるが、著者は再々、専門的な技術を習得するには10000時間(年2000時間としても5年)程度あることに打ち込む必要がある、という研究報告を参照している。逆にいえば、それくらい打ち込んで習得した物事でなければ”専門的な技術”、”スペシャリスト”とは言えないよ、ということになる。新聞広告にあるような通信教育を受けてすぐにとれるような”資格”くらいでは”専門技能”とは呼べないのであり、スペシャリストたるにはそれなりの時間と努力(要するに情熱)が必要だと。
テクノロジーが発達することで、また労働市場がよりインターナショナルになることで、より”私にしかできない”ことに価値が出てくる。それは、AI、ロボット、他の人では容易にできないような、マニュアル化や言語化が難しいような時間をかけて習得した”暗黙知”を含む高度な技能だと。

②について、著者は3つの人的ネットワークを想定している。1つは”ポッセ”というもの。そもそもポッセとは、西部劇で保安官が必要に応じて招集する自警団のことであり、普段はそれぞれ違う仕事をしているが、必要となれば結集して悪党を追い払う、やり手の人たちのグループという意味。私の場合、”特攻野郎Aチーム”だったり、ルパンⅢ世の3人だったりを思い浮かべる。
仕事や課題解決において、少人数の、その筋のスペシャリストからなるグループが必要だと述べている。

2つ目のグループは”ビッグアイデア・クラウド”というもの。今後はインターネット技術の普及とその高度化によって、より世界中の人たちと容易につながれるようになる。ある課題に対して、世界中の人たち、多様な分野の人たちからアイデアを集めるようなやり方は今でもあるし、これからはよりそういったやり方がより洗練されて様々な課題解決に活用されていくはずだと。

3つ目は、”自己再生のコミュニティ”というもの。これはようするに”サードプレイス”的な人のつながり、場所というものが必要だよ、ということ。将来、技術が進化してバーチャルな事柄が増えていくことの負の側面として、リアルな人とのつながりが希薄になり、より孤独を感じる度合いが増すことが予想される。だから、親しい友人とリアルにつながれるようなコミュニティも必要だと。

③については、物を買って消費することに価値の中心があった時代は過去のものとなるよ、ということ。それは変化の5つの要因から必然的にそうなっていくよ、と。この点については、逆説的に大量生産を主導してきた産業の人たちが真っ先に危機意識を抱いて、それに対応するべく取り組んでいるように感じる。典型的なのは、トヨタ自動車が”車を売らない”といったことを掲げていることなんかに見られる変化だといえる。また、いわゆる一流起業に勤めていたようなエリート社員が、地方へ移住して小さな起業をしている動きなどがそういう流れを示している。社会制度、法においてもそういった流れで動いているように思うし、今後その流れが強くなっていくことは確かなように感じる。

週5日、8時間職場へ行って働く、毎月給料をもらい、生涯おなじ会社に勤める、仕事をするということがそういうスタイルになったのは歴史的には極めて最近のことにすぎない。また、生活・娯楽が主として何かを消費することで成り立つようになったのも最近のことといえる。数十年先から現代を振り返れば、いまのような大量生産・大量消費のありようのほうが特殊だった、といえるようになっているのかもしれない。

これまで“学校へ行かない”、“仕事へ行かない”ということは一般的にはあまり考えられていなかった。ところが、今回のコロナ禍において一気にリアルなことになっている。
このコロナ禍を一つの契機として、働き方、ライフスタイルの変化のシフトチェンジが一気に加速することは確かなように思う。その際、本書で指摘されているような“漫然と迎えた場合の暗い未来”にならないようにしたいのだが、こういう変化の際には痛みを伴う部分もでてくるだろうし、反動的な動きも出るだろうから、まずは身近なことからやっていくのがいいように思う。


posted by 五人坊主 at 06:07| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年03月22日

サードプレイス

“サードプレイスというのは、家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場所を提供する、さまざまな公共の場所の総称である” アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが記した『サードプレイス』(1996年著)よってこの概念は明確にされたといえる。彼は世の中にはこういった場所が必要なんじゃないの!?と強く訴え、この本が彼と同じように感じている人たちの理論的な拠り所となることを願っている。

”サードプレイスの「楽しい」機能は、おそらく、娯楽の機能として理解したほうがいい。ひどく残念なことにアメリカでは、娯楽がことごとく産業に堕してしまった。わたしたちは与えられるがままにそれを受け取る。一人ぼっちで。そしてしばしば、それをつまらないと思う”

”わたしたちは、財力が許すかぎり大きくて蓄えの十分な家に住んでいるが、そこからたびたび逃げ出したくなる。おおかたの人にとって唯一の実際の手段は車であり、おおかたの人にとって唯一の現実的な逃げ場はショッピングモールと歓楽街だ。そこでは買い物をしてお金を使うことが期待される。 - わたしたちアメリカ人は、自宅の近所でお金をかけずに親しくつきあう手段をみずから禁じてしまった。

”アメリカ人の生活様式は、物欲が満たされ、快適さや楽しみを追い求めているにもかかわらず、退屈、孤独、疎外感、値段の高さに悩まされている。アメリカはさまざまな面で進歩を遂げたが、インフォーマルな公共生活の領域では地歩を失い、そして今も失い続けている”

”知らない人に出会い、挨拶をし、楽しい時をすごすのに必要な礼儀作法からなる潤滑油のような公共のエチケットは、アメリカではあまり目につかない。それに取って代わったのが、公の場で人との接触を避けるために考案された一連の戦略であり、個人の私生活の領域をいかなる他者の侵害からも守ろうとする方策だ。都会的な洗練は損なわれ、・・・なるべく人前で表情を見せたり身体を接触させたりしないすべを学ぶことなど、快適さのない世界で生き延びるのに必要な技術へと堕しつつある・・・”

”フランス人の日常生活は、家庭、仕事場、それにもう一つ、真昼や夕暮れの食前酒の時間に友人たちが積極的に関わる環境という、三脚台の上にしっかり載っている。アメリカでは、わけても中流階級は、家庭と仕事という二脚の台の上でつり合いをとろうと努力している。疎外感、退屈、ストレスがわたしたちアメリカ人に特有の病であるのも驚くにはあたらない。アメリカ人の大半は、人生の三分の一が不十分または皆無であり、残りの三分の二では全体としてうまくまとめ上げることができないのだ”




『サードプレイス』の本自体は、みすず書房の500ページくらいのハードな本で、専門書的な雰囲気を放っているが、内容はその印象とはやや違っている。
“わたしは科学報告然とした姿勢と言葉づかいを避けることにした。社会の「とびきり居心地よい場所(=サードプレイス)」を分析するだけでなく、宣伝もするつもりだから。 - 悪賢い弁護士よろしく、わたしは自分の逸話と実例とを、この陪審員の琴線に触れるようにしたてようとした”
とあるように、分析的でありながら、客観的なばかりでなく、サードプレイスを”よいもの、必要なもの”という前提で、それを推奨するべく書かれている。そのため、やや主観にすぎる、恣意的ともとれる内容が多い。
ただし、「この著者はそんなに家庭の居心地がわるいのか」「職場に問題があるのではないか」といったつっこみをいれられる方たちは幸いなるかな。日本においても、私自身を含め、多くの方たちは著者の主張に身につまされる、納得がいくところがあるのではないか。

私は、NHKのラジオを聴いていてたまたま”サードプレイス”という言葉を知り、”!”と思うところがあって調べ始めた。私が暮らすような田舎では、地域の寄り合いみたいなものが残っていて、それが著者のいう”サードプレイス”的な役割をはたしており、アメリカや日本の都市部ほどには殺伐とはしていないように感じる。いっぽうでは、地域の寄り合いは選択の余地がない、この地域であればこの面子と付き合う以外にはないという不自由さもある。やはりある程度選択できる、参加の自由度のより高い“サードプレイス”的な場があったほうがいいなと・・・

サードプレイスがらみで、『人が集まる「つなぎ場」のつくり方 都市型茶室「六次元」の発想とは』(ナカムラクニオ著)と『本屋、はじめました』(辻山良雄著)の2冊を読んだ。日本においても、“サードプレイス”的な新しい場、取り組みが出てきており、この2冊の著者方がやられていることはその中でも先鋭的な試みのように感じた。

面白かったのは、この両方は“本”、“ギャラリー”、”カフェ”、“イベント”といったものを組合わせて”場所”、“場”をつくっているという点ではよく似ているのだけれど、本自体は全く対照的であったこと。「六次元」の本は文章も内容も装丁もアバンギャルドで、いかにも”新しさ”を感じさせるものであったのにたいして、辻山さんの本のほうは、きわめて散文的な文章で、全体を通して一定した低めのトーンで終始していた。どちらが良い、ということではなくて、両店主の個性が本にもはっきりとあらわれているのが興味深かった。

“家の近くに好奇心をくすぐられ、少しのあいだでも日常から離れることのできる場所があるのは、その街にとっても豊かなことだと思う。
イベントに限らず、街なかで見知らぬ人と話をしたり、本来の自分を満たしてくれるような空間が、いまの社会では得難いものになっているのではないか。 - その人の日常を支配する価値観から離れ、こころに直接語り掛けてくる声に満ちた異空間。本屋は本を買うための場所であるが、実は自分に帰るための場所でもあるのだ。”

“店まで行かなくても本を買うことのできる時代では、本屋という場所自体が、これまでとは違う意味を帯びてくる。最近できた本屋を見ていると、本屋は<本を売る場所>といったこと以上に、<本を媒介としたコミュニケーションの場>になりつつあると感じる

”好きな本を店頭に並べ、買ってもらいたいという気持ちは、この商売をするうえでの<もと>である。そして個人店では、そうした気持ちがストレートに表れているほうが、来る人の共感を得やすい。多くの人が個人店に求めているのは、本を利用したビジネスではなく、本そのものに対するパッションだからだ。

“ほとんどの会社では、多くの仕事はマニュアル化して、誰にでもできるようなものを目指しているだろう。以前にいた会社でも、その仕事はほかの誰かにふることができないのかとよく言われたものだが、本を扱う仕事は属人性が高く、個人の経験を皆が使えるものとするのはむずかしかった。
だからこそ個人として生きる活路は、誰にでも簡単にはできない技術を高め、世間一般のシステムからは、外に抜け出すことにある。それには自らの本質に根差した仕事を研ぎ澄ませるしかなく、それを徹底することで、一度消費されて終わりではない、息の長い仕事を続けていけるのだと思う”

以上『本屋、はじめました』より引用

辻山さんの本は最初あまりに淡々と書かれているので ”!?”という感じだったが、静かで淡々とした文章のなかから徐々に白熱する想いが伝わってきた。最近なんにつけ少しオーバーなくらいに表現したりすることが流行りのようであるが、はじめちょっと物足りないような印象を与えながら、じわじわくるもののほうが私にはあっている。

posted by 五人坊主 at 12:01| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする