2020年03月22日

サードプレイス

“サードプレイスというのは、家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場所を提供する、さまざまな公共の場所の総称である” アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが記した『サードプレイス』(1996年著)よってこの概念は明確にされたといえる。彼は世の中にはこういった場所が必要なんじゃないの!?と強く訴え、この本が彼と同じように感じている人たちの理論的な拠り所となることを願っている。

”サードプレイスの「楽しい」機能は、おそらく、娯楽の機能として理解したほうがいい。ひどく残念なことにアメリカでは、娯楽がことごとく産業に堕してしまった。わたしたちは与えられるがままにそれを受け取る。一人ぼっちで。そしてしばしば、それをつまらないと思う”

”わたしたちは、財力が許すかぎり大きくて蓄えの十分な家に住んでいるが、そこからたびたび逃げ出したくなる。おおかたの人にとって唯一の実際の手段は車であり、おおかたの人にとって唯一の現実的な逃げ場はショッピングモールと歓楽街だ。そこでは買い物をしてお金を使うことが期待される。 - わたしたちアメリカ人は、自宅の近所でお金をかけずに親しくつきあう手段をみずから禁じてしまった。

”アメリカ人の生活様式は、物欲が満たされ、快適さや楽しみを追い求めているにもかかわらず、退屈、孤独、疎外感、値段の高さに悩まされている。アメリカはさまざまな面で進歩を遂げたが、インフォーマルな公共生活の領域では地歩を失い、そして今も失い続けている”

”知らない人に出会い、挨拶をし、楽しい時をすごすのに必要な礼儀作法からなる潤滑油のような公共のエチケットは、アメリカではあまり目につかない。それに取って代わったのが、公の場で人との接触を避けるために考案された一連の戦略であり、個人の私生活の領域をいかなる他者の侵害からも守ろうとする方策だ。都会的な洗練は損なわれ、・・・なるべく人前で表情を見せたり身体を接触させたりしないすべを学ぶことなど、快適さのない世界で生き延びるのに必要な技術へと堕しつつある・・・”

”フランス人の日常生活は、家庭、仕事場、それにもう一つ、真昼や夕暮れの食前酒の時間に友人たちが積極的に関わる環境という、三脚台の上にしっかり載っている。アメリカでは、わけても中流階級は、家庭と仕事という二脚の台の上でつり合いをとろうと努力している。疎外感、退屈、ストレスがわたしたちアメリカ人に特有の病であるのも驚くにはあたらない。アメリカ人の大半は、人生の三分の一が不十分または皆無であり、残りの三分の二では全体としてうまくまとめ上げることができないのだ”




『サードプレイス』の本自体は、みすず書房の500ページくらいのハードな本で、専門書的な雰囲気を放っているが、内容はその印象とはやや違っている。
“わたしは科学報告然とした姿勢と言葉づかいを避けることにした。社会の「とびきり居心地よい場所(=サードプレイス)」を分析するだけでなく、宣伝もするつもりだから。 - 悪賢い弁護士よろしく、わたしは自分の逸話と実例とを、この陪審員の琴線に触れるようにしたてようとした”
とあるように、分析的でありながら、客観的なばかりでなく、サードプレイスを”よいもの、必要なもの”という前提で、それを推奨するべく書かれている。そのため、やや主観にすぎる、恣意的ともとれる内容が多い。
ただし、「この著者はそんなに家庭の居心地がわるいのか」「職場に問題があるのではないか」といったつっこみをいれられる方たちは幸いなるかな。日本においても、私自身を含め、多くの方たちは著者の主張に身につまされる、納得がいくところがあるのではないか。

私は、NHKのラジオを聴いていてたまたま”サードプレイス”という言葉を知り、”!”と思うところがあって調べ始めた。私が暮らすような田舎では、地域の寄り合いみたいなものが残っていて、それが著者のいう”サードプレイス”的な役割をはたしており、アメリカや日本の都市部ほどには殺伐とはしていないように感じる。いっぽうでは、地域の寄り合いは選択の余地がない、この地域であればこの面子と付き合う以外にはないという不自由さもある。やはりある程度選択できる、参加の自由度のより高い“サードプレイス”的な場があったほうがいいなと・・・

サードプレイスがらみで、『人が集まる「つなぎ場」のつくり方 都市型茶室「六次元」の発想とは』(ナカムラクニオ著)と『本屋、はじめました』(辻山良雄著)の2冊を読んだ。日本においても、“サードプレイス”的な新しい場、取り組みが出てきており、この2冊の著者方がやられていることはその中でも先鋭的な試みのように感じた。

面白かったのは、この両方は“本”、“ギャラリー”、”カフェ”、“イベント”といったものを組合わせて”場所”、“場”をつくっているという点ではよく似ているのだけれど、本自体は全く対照的であったこと。「六次元」の本は文章も内容も装丁もアバンギャルドで、いかにも”新しさ”を感じさせるものであったのにたいして、辻山さんの本のほうは、きわめて散文的な文章で、全体を通して一定した低めのトーンで終始していた。どちらが良い、ということではなくて、両店主の個性が本にもはっきりとあらわれているのが興味深かった。

“家の近くに好奇心をくすぐられ、少しのあいだでも日常から離れることのできる場所があるのは、その街にとっても豊かなことだと思う。
イベントに限らず、街なかで見知らぬ人と話をしたり、本来の自分を満たしてくれるような空間が、いまの社会では得難いものになっているのではないか。 - その人の日常を支配する価値観から離れ、こころに直接語り掛けてくる声に満ちた異空間。本屋は本を買うための場所であるが、実は自分に帰るための場所でもあるのだ。”

“店まで行かなくても本を買うことのできる時代では、本屋という場所自体が、これまでとは違う意味を帯びてくる。最近できた本屋を見ていると、本屋は<本を売る場所>といったこと以上に、<本を媒介としたコミュニケーションの場>になりつつあると感じる

”好きな本を店頭に並べ、買ってもらいたいという気持ちは、この商売をするうえでの<もと>である。そして個人店では、そうした気持ちがストレートに表れているほうが、来る人の共感を得やすい。多くの人が個人店に求めているのは、本を利用したビジネスではなく、本そのものに対するパッションだからだ。

“ほとんどの会社では、多くの仕事はマニュアル化して、誰にでもできるようなものを目指しているだろう。以前にいた会社でも、その仕事はほかの誰かにふることができないのかとよく言われたものだが、本を扱う仕事は属人性が高く、個人の経験を皆が使えるものとするのはむずかしかった。
だからこそ個人として生きる活路は、誰にでも簡単にはできない技術を高め、世間一般のシステムからは、外に抜け出すことにある。それには自らの本質に根差した仕事を研ぎ澄ませるしかなく、それを徹底することで、一度消費されて終わりではない、息の長い仕事を続けていけるのだと思う”

以上『本屋、はじめました』より引用

辻山さんの本は最初あまりに淡々と書かれているので ”!?”という感じだったが、静かで淡々とした文章のなかから徐々に白熱する想いが伝わってきた。最近なんにつけ少しオーバーなくらいに表現したりすることが流行りのようであるが、はじめちょっと物足りないような印象を与えながら、じわじわくるもののほうが私にはあっている。

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2020年02月29日

政治について

近年では国内の選挙の投票率は軒並み50%を切るようになってきた。
実際、国会中継などをたまに聞いても、ひどいものだという感じ。10数年まえは、加藤紘一さんや渡辺耕三さんなど、まだ言葉に力のある政治家もいたように思うが、最近は車でちょっと聞いてはみるものの、すぐに切ってしまうことが多くなった。
政治はどこへいくのか、肯定的な方向性はあるのか、そんなことを漠然と感じていたー

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200228-00000078-sasahi-soci&p=1

この記事を読んで、肯定的な方向性っていうのはあるんじゃないかと思えた。台湾はすごいなー
posted by 五人坊主 at 12:49| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年02月19日

オーバーストーリー

『オーバーストーリー』リチャード・パワーアズ著は、アメリカにおけるある天然木ー原生林をめぐるある闘争を、多様な登場人物の視点から、多角的な視点からみるような物語となっている。長編であり、登場する人物も多様であり、その登場人物たちが交錯したりしなかったりと、かなり複雑なストーリーだった。喩の使い方、物語の展開のしかたが良くできているのか、割と読みやすく、ストーリーを純粋に楽しめた。

一読すると、作者の環境問題に対する立場というものがわりとはっきりしているように感じる、環境左翼的な立場なんじゃないかと。アメリカで言えば、共和党支持者のような人たちはあまり読まないか、読んでも肯定的な感想を持たないだろうし、民主党支持者にはうけるんじゃないかという感じ。

ただ、本書は、環境問題ー原生林保護に関するような問題は、そういう政治的な立場を超える問題であることを示そうというモチーフがあるように思う。環境問題ー原生林の保護活動のようなものは、政局的な扱いで政策や取り扱いが左右されるような類のものではないとー

科学、政治、法、芸術、社会運動、精神分析、人工知能といった、多角的な視座を用いて描いていることがこの物語の大きな特徴であり、そのいずれに関してもわりと深い理解の上に書かれているように思う。作者が目指したいのは、環境ー原生林保護のような課題は“本当のところどうなの?”というのを、“いま、できる限りトータルにとらえてみたい、表現してみたい”ということなんだと思う。本書の最後のほうで、生態系にかんするあらゆるデータをAIによって集積・解析することではじめて見えてくるものがあるんじゃないかということが示唆されている・・・天然自然と人に関する事柄の徹底的な客観化・相対化、そして統合へ・・・


作者のモチーフが成功しているかどうかは別として、作者の知見の広さと深さ、表現・喩の見事さはそれだけでとても魅力的だった。読んでいるあいだ、聞くとはなしにStefano BattagliaのPelagosをかけていたのだが、これが作中の”ミマス”をめぐる静かなで美しい抵抗運動の場面のためにつくられたBGMとしか思えないほどはまっていて、なんともいえずよかったー
posted by 五人坊主 at 06:09| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする