2020年11月15日

生きる はたらく つくる

『生きる はたらく つくる』(皆川明著)
ミナペルホネンの創業者・デザイナーの皆川さんが、自らの来歴を書いた本。淡々と描かれているようで、一語一語が丁寧に書かれている、皆川さんの仕事(服飾の仕事)におけるスタンスが文章にも表れているように感じる。

”働くことは本来、クリエイティブなことだと思う。服の裾上げも、生地の裁断も、仮縫いも、マグロをさばくのも(かつて魚市場でアルバイトをしながら服飾の仕事をしていた経験から)、自分でつくった服をクルマにのせて営業にでかけるのも。一着も売れずに、そのまま帰ってくることでさえも。
”失敗すること、うまくいなかいこと、評価されないこと。クリエイティブの種になるものは、そこでこそ、大事な芽がでてくる可能性がある。自分の場合はそうだった”

”たったいま、すぐに何か特別なことをしなさいと言われても、ぼくにはそれができない。じっくり考えるうちに、試行錯誤を重ねるうちに、じょじょに理解をふかめてゆくほうが、安心してものづくりにとりくむことができる。

”ぼくたちがさまざまに、お客様に提供しようとしているものとはなにか。
それは、「よい記憶」となることではないか。そう思うようになった。最終的には、かたちそのものが目的ではなく、人のなかに残る「よい記憶」をつくるきっかけになるもの。それをつくりたいのだ。
”何をすべきかを考えるとき、ジャンルや事業の分類にはこだわらず、どんな「よい記憶」にしたいかということだけを丁寧に考えていればいい。つくるべきものがなんであっても、「よい記憶」となることさえ忘れなければ、おのずとやるべきことが見えてくる”

”ぼくは不完全で足らない人間だと思う。
服をつくることで、やっと世の中とつながることのできる人間でしかないのかもしれない。ときどき、ぼくは自分自身が気づいていない、ぽっかりと空いた穴を埋めようとして、ここまでやってきたのかもしれない、と考えることがある。”

”コントロールできないおおきな海に浮かびながら、手と足だけは動かすことをやめないでいる。息もしている。海の下で動いている海流が、ぼくをどこかに運んでいるのがわかる。突然、目の前にあらわれた小さな島に、這い上がる。そこでなにかをつくりはじめる。
その島が、ミナペルホネンになった”

皆川さんが言われていることは、自分の実感に非常に近く、励まされる思いで読み終えた。休日の、精神のいい栄養になった・・・



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2020年11月10日

地獄と人間

『地獄と人間』吉本隆明拾遺講演集
没後8年、1966年から2007年に行われた講演で、これまで未発表であったものを中心にまとめられたもの。

表題の「地獄と人間」の講演では、主に浄土教の僧侶、源信、法然、親鸞において、「地獄ー浄土」の概念がどうとらえられ、変遷していったかについて語られている。

中世の、戦乱の世にあって、宗教が、より衆生(一般の人)にとって切実な問題に近づけられていく。経典を読んで知識を高めていく、修行を積んで悟りを開く。そういった宗教の在り様では、衆生(一般の人たち)の、現実の困難さ、切実な状況に対して答えることが出来ない、そんな現実の切実さ、困難さに宗教はこたえることが出来るのか。源信から法然へ、法然から親鸞へと至ることで、浄土教が、そういった現実の切実さに対して、どう答えようとしていったのか、浄土ー地獄という概念の変遷に即して語られている。

親鸞においては、浄土ー地獄は、あの世、この世の彼岸にあるものではなく、現世、この世に浄土も地獄もある、とされる。これは、もはや浄土教、宗教を解体するに等しい。信仰があってもで信仰がなくても弥陀は救ってくれる。では、宗教は、信仰はどうなるのか、というところまで宗教を解体していった親鸞のラディカルさー

なんとなく最近”地獄”という言葉、概念が頻繁に思い浮かんでいたところへ、『地獄と人間』を知って読んだ。”地獄”について語られている個所は限定的であったが、1960年代の、まだ三島由紀夫が存命であった時代の”文学、知識人”に関する講演など、とても興味深いものだった。

教育に関する講演(1988年)のなかで、カート・ヴォネガットというアメリカの作家が、ビアフラ共和国について書いたエッセイについて触れているところがある。”ビアフラ共和国”なんて国あったかな、と思ったが、1960年代に3年間だけ、ナイジェリアの中に存在した国のよう。
カート・ヴォネガットは、ナイジェリアに制圧されそうになっているビアフラ共和国へ単独わたり、国の末期に、帰国できる最後のタイミングでアメリカへ帰ってきた、それについて書いたエッセイについて話している。

”僕はこの間、アフリカの難民問題に関心をもっているフェリックス・ガタリという哲学者と喋ったんですけど、彼は、「アフリカの難民にたいして、共感を寄せなきゃならん」みたいなことをあっさりいうから、癪にさわるわけですよ。冗談じゃない。あんたは勝手にそんなことをいって、旅券さえあればアフリカにもすぐに行けるとおもっている。でも思想、精神がそこへ行くためにはフランス国家、さらにはアフリカのそれぞれの国家を超えていかねばならない。そうしなければ、思想、精神はそこには行けないはずですよと。”

”ヴォネガットという人はアフリカ問題の細部のところに入り、自分で実感したうえで何かを述べている。しかも帰国してから「ビアフラにたいしてなにかやれることがないか」と聞かれたとき、「いや、なにもないとおもう。あれはナイジェリアの国内問題に過ぎませんよ」と答えた。ここにはアイロニー、反語も入っているけれども「あれはナイジェリアの国内問題に過ぎないから、アメリカ人には何もできませんよ」という言い方をする”
”でも自分はビアフラから帰ってきて、ただ一回だけ泣いたことがあると。・・・帰ってきてから3日目の夜中、自分は夢を見ていて、飛び起きて泣いた。それがただ一度泣いたことだと書いている”

”一般的、社会的な悲劇、悲惨は個人的な悲劇、悲惨と同じようにあるわけですけど、それを判断する場合には必ず細部、あるいは歴史の無意識に入っていくといいましょうか、無意識も入れて判断しなければ、間違えることがたくさんありますよと”

講演は、50年以上前のものから10数年前のものまであるが、どれも”現在”においても古さを感じない、”現在的”な課題に対して有効な内容なもののように感じる。

posted by 五人坊主 at 06:26| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2020年11月04日

ファクトフルネス

遅ればせながら読んでみた、私自身、世界の現状をきちんと認識できていなかったことを大いに知らしめられた。また”ファクト”をきちんと認識すること、そこから正確に判断することかがなぜこうもできていないのか、どうすればより正確に”ファクト”を認識し、正確に判断できるようになるのかといったことが非常にわかりやすく書かれていた。基礎教養(リベラルアーツ)としてとてもよい本のように思う。

すでに多くの人が読んでいるだろうし、多くの方々がこの本について述べられていると思うので、内容についてはもういいのではないかと思うが、自分的に印象に残った個所を何点か。

”同じ国の中にも大きな違いがあり、国が違っても所得が同じなら、文化や宗教にかかわらず共通点は多い。(お湯を沸かす方法の地域別の違いを例に)それは文化の違いではなく所得の違いによるものだ。人の行動の理由を、国や文化や宗教のせいにする人がいたら、疑ってかかったほうがいい”

"社会や経済の発展が止まっているのは、とてつもなく破壊的なリーダーがいたり、紛争が起きているほんの少数の国だ。それ以外の場所では、悲しいくらいに無能な大統領のいる国でも進歩している。一国のリーダーなんてそれほど重要じゃないんじゃないかと思ってしまうほどだ。・・・国を進歩させるのは、社会を築いてくれる多くの人々だ。・・・社会を機能させている、勇敢で辛抱強い人たちが注目されることはめったにない。でも本当の救世主はそんな人たちだ”

”(地球温暖化問題への対応に関して、最悪のシナリオを示すことが人々の積極的な行動を起こすのに有効だという考えに対して)地球温暖化は切実な問題だからこそ、愚かな判断につながるようなことはしたくない。必要なのは総合的な分析と、考え抜いた決断と、段階的な行動と、慎重な評価なのだ”

”中央政府が国民の問題をすべて解決できるという考えは、一見理にかなっているようで、実はまったくおかしな話だ。キューバの非効率や貧困や自由の無さを見て、政府が社会を計画するようなことが絶対にゆるされてはならないと決めつけたくなる気持ちはわかる・・・
市場が国家のすべての問題を解決できるという考え方も、一見理にかなっているようで、実はまったくおかしな話だ。アメリカの格差と医療の結果を見て、公的サービスを民間企業に任せて競争させるようなことはあってはならないと決めつけたくなる気持ちもわかる・・・
民間か、政府かという議論への答えは、ほとんどの場合二者択一ではない・・・規制と自由のちょうどいいバランスを見つけることが大切だし、それは難しい”

著者は、もともと現場医療の専門家として世界中を渡り歩いていた。現場での経験から、より多くの人たちの生命を救うために必要なことを徐々に実感するようになっていったようだ、人々の生命を危険にさらす根本的な要因を解決していくこと、そのためには正確に”事実”を把握し、それに基づいて行動することが不可欠だと。
民間、政府機関等、様々な機会でデータを示し、正確に世界の現状を把握することの必要性、またそれらの事実に基づいて行動することの重要性を訴えてきた著者の集大成としての本である。実際、著者はこの本を書き終えるとともに亡くなっている。

より多くの人の命を救うには、また世界をより持続可能な状態にするにはどうすればよいか。貧困をなくすこと、そのために教育・インフラを整備すること、出生率を適正に保つこと、自然環境の保全を行うこと・・・どれも必要なことだと多くの人は認識していると思う。けれど、実際の有効性・進捗状況を正確に認識しているひとは意外と少ない。少なくとも私が思っていた以上に世界は総合的には良い方向へ進んでいるし、これからもさらに良くなっていくだろうと本書を読んで感じた。

1980年代に、吉本隆明が状況論のなかで、資本主義は人類の無意識が生んだ現在最高のシステムだ、というようなことを述べて左翼系のひとたちから大いに批判をされたことがあった。吉本隆明は、当時から社会主義革命のようなものはもう必要ない、歴史を終焉させる(貧困や戦争がなくなり、世界中の人たちが自由で豊かな生活をおくれるようになる)には人類の無意識に任せるのがよい、というようなことを述べている(表現が正確でないのでよろしくないかもしれないが)。私がそれらを読んだのは1990年代の後半であるが、その趣旨をよく理解していたとは言えない。ただ、『ファクトフルネス』(ハンス・ロスリング)を読む限り、吉本隆明が40年前から述べていたことはいまのところ間違っていなかったといえるように思う。

「ファクトベース」だ、「エビデンス」だと、最近よく使われているように感じる。実際は、結構恣意的なデータや映像の切り取りを使っていることが多く、”ファクトフルネス”の思想からは程遠いものが多い。恣意的な”ファクト”が乱用されると、結局ハンス・ロリングさんが意図したような”ファクトフルネス”とはまったく別ものになってしまう。

ファクトフルネスであるには、本書がつねに行っているように高次の客観化(客観化を客観化する、それをまた客観化する・・・)と、多角的な検証の繰り返しが欠かせない。実際そこまでなかなかできるわけではないが、ハンスさんが切り開いた「ファクトフルネス」の認識方法・ツールは、今後さまざまなシチュエーションにおいて生かしていけるように思う
posted by 五人坊主 at 06:41| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする