2019年11月06日

「本屋」は死なない

『「本屋」は死なない』は初版が2011年だから新しい本ではない。この本を読んでみようと思ったのは、この本の著者が最近新刊『本屋がアジアをつなぐ』を上梓したことが新聞で取り上げられており、興味をもったため読んだ次第。

本書では日本全国の個性的な本屋(「意志ある本屋」)もしくは店主が数店・数名取り上げられている。序盤はこちらのピントが今一つあわず、正直なところあまり面白い本のように思えなかったが、岩手県の元さわや書店・伊藤清彦さん、鳥取県の定有堂書店・奈良敏行さん、名古屋のちくさ正文館・古田一晴の3店・3名についてのインタビュー・ルポルタージュは非常に面白かった。

デジタル書籍の登場、インターネットを介しての本の流通拡大などにより、近年既存の本屋は減少の一途。私もほとんどの本をインターネットで買っているので、本屋へ行くことはあまりない。本屋が減少していくのもやむなし、と思っていた。

“本屋は、もともとはミッションがあった。ミッションを持たざるを得なかったというのかな。お客さんの、本に対する個別の要求に応えていく。頼まれたらどんな本でも手に入れなきゃいけないし、本のことを聞かれてわからないというのは基本的に恥ずかしいことだったから、よく勉強しなくちゃいけなかった。それは、地域に対してミッションを負っているからなんですね。
いつのまにか、そうではなくなった。お客さんもそれを求めなくなっているのはたしかで、いまはアマゾンンで調べて買えるし、郊外に行けばついでにいろんな買い物ができるスーパーがあって。お客さんが店を作る、という構造が壊れたともいえますね。以前はお客さんも、自分の欲しいものが手に入る店にするには、通って、店を育てなきゃいけなかった。そういう双方向性、互酬性がありました。
本屋のほうも、そういうお客さんとのやり取りのなかで生きていくより、量をさばいたり、資本力の差で決まるみたいなことが続いたわけですけど、この潮が引いたときに残るのは、たとえばイハラ・ハートショップの井原さんみたいに(和歌山県の山の中の小さな集落で、日用品や食料品と一緒に本を売っており、地域で必要とされているお店)、地域に対してミッションがある人なんじゃないかな”

”どの本を何冊売ったところで、その一人ひとりが受け取った一冊のほうが、ずっと重いですよね”

“本が好きで、だから本屋になったんですけど。本が好きだという生き方は、自分が主人公。本を売る生き方は、お客さんが主人公。…ここでいうお客さんって、やっぱり本を大事にする人、読者と呼ぶべき人達ですけど。彼らと向き合うことで、はじめて他者と出会えたんです…”

以上は本書で取り上げられている鳥取県の定有堂書店・奈良敏行氏の言葉。この方の言葉はどれも私に響いてくるものだった。

店をはじめた当初は、「本屋が好きで本屋を始めたっていうわりに、この店、『本』が全然ないね」と客にいわれたこともあるらしい。本書を読み進めると、一般の「本」・「本屋」と、ここで取り上げられている方々にとっての「本」・「本屋」とは全然違うものであることがはっきりと感じられてくる。

“僕が話を聞こうと訪れる本屋と、TUTAYAに代表されるナショナルチェーン、あるいは地場チェーンの郊外型書店はいわば対極にある。…品揃えから接客のスタイルまですべてがパッケージングされた、顔の見えない書店であるためだろう…
幹線道路沿いに立ち並ぶすべての書店とそこで働く全員が、あんなの本屋じゃないと蔑まれるような仕事をしているわけではない。実際に「本」を面白がってもらおうと熱心に棚を作っていることが伝わる店にであうこともある。
だが、「本」の看板を見れば車を停めて店をのぞく、という行動を繰り返すとやはりほとんどの場合はがっかりする。なにがまずいのか?送られてきた本を決められた場所にただ置いているだけなのがつまらない。それがなぜ失望につながるのだろう?たとえば無気力のムードが漂っている。売り場に本がたくさんあって、挨拶が丁寧で、でも一冊の本に込められたものを届ける意思が見えない”

本屋や本自体の需要が減少していくことが避けられないような状況の中で、本屋の存在意義とはなにか、本屋に未来はあるのかというような主題が本書にはあるといえるが、著者はそれらの主題に明確な答えを出しているわけではない。ただ、ここに取り上げられているような本屋や、本を扱う方々のような存在は、これからもなくならないであろうし、こういう状況であるからこそ一層求められる存在となっていくであろうことを予見させてくれている。

メディアとしての「本」と、私があつかっている「農産物」とでは意味合いがだいぶ違うといえるが、お客さんを相手にすることにおいては同じといえることもあるように思う。本書で取り上げられている本屋の方々のような熱意、誠意をもって仕事をできるか、実際に購入して食されるお客さん一人ひとりにどれだけこたえられるか、という点においては違いはないのかもしれない。

本屋ではなく料理屋さんなどでも、店の雰囲気や接客の態度、料理ひとつひとつに、その店をやっている人の情熱・意思、想いといったものがいやでも出てしまうものだと思う。一方で、他の人の店だとその良し悪しがよく見えるのに、自分のやっていることはどうなのか、となってくると、あまり人のことを悪くいっている場合ではないなと・・・


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2019年10月08日

わざわざの働きかた

『わざわざの働きかた』は、長野県東御市でパンと雑貨の店「わざわざ」をやられている平田はる香さんが書かれた本。
この本は、「わざわざ」で働きたい、という人は必ず読んで、応募するにあたって感想を書いて送らなければならないことになっている。この本は、「わざわざ」がどういうところか、どういう考え、想いで仕事をしているのかが、シンプルでありながら高密度で書かれている。
本でありながら募集要項が書かれている。雇用条件も書かれているが、田舎にあるパンと雑貨のお店とはとうてい思えないほど良い条件だと思う。雇用条件から逆算するに、「わざわざ」の労働生産性は当農園の倍は軽くあると思われる。

2種類のパンと、「本当に欲しいものだけを集めた」雑貨やオリジナル商品。店頭販売と通販のみ。やられていることは極めてシンプルだが、高い労働生産性を裏付けるもの、バックグランドがなんであるか、この本を読むとよくわかるように感じる。
本自体は、1時間もあれば読める程度の文書量。しかし、ひとつひとつの文章、言葉に力がある。店主(会社なので社長)の経験、知識、センス、そして情熱という膨大なバックグランドが垣間見れる。

オリジナルのロケットストーブ型パン釜、円型の組織図とその発展型の長屋式組織図など、本ではさらりと触れられているだけだが、こういったものはそうそう考え出したり実行したりできるものではない。お店の理念なども書かれているが、きわめてシンプルでありながら、お店の方向性をきちんと表現し、奥行きがある内容になっている。

さて。私たちの住む地域の現状を考えるに、もう少しなにかやっていかないと地域が成り立たない、人口減少に歯止めがかからず、村が立ち行かなくなるのは時間の問題— たぶんこういった問題は、日本中の田舎で起きている問題であるし、どこも対応を考え実践してきていること。しかし、うまくいっている例は極めて少ないように感じる。

上手くいっている所とそうでないところ、何が違うのか。一言でいえば、“人”に尽きるように思う(もちろん、立地や地域の歴史なども関係ないわけではないが)。
バックグランドがしっかりしたビジョン、理念を持って、魅力的なこと、魅力的な場所を作り出せる人、起点となるような事業を行える人。そういった起点となる人を支える人。そして、その起点となる場所や事業から派生した魅力的な場所や事業をはじめる人。起点ー派生を生み出せるかどうかは、行政が旗を振ったところでなかなかうまくいくものではないように感じる。

地域おこし、地域振興を目的になにか事業を考え実施していく。そういう流れはそもそもからして違うのじゃないか。魅力的な場所や“こと”があって、そこに人が来る、そこからいろいろなことが派生していく。結果として地域に雇用が生まれ地域全体が豊かになっていく。そういう方が本来の流れじゃなか。ということを、最近ある方から言われたが、そうだと思う。起点となるような、魅力的な場所、コトを作り出せるかー

「わざわざ」がお店として今後も発展していく事は予想できるが、それのみではなく、ここが起点となって、この地域でなにかやってみたい、という人がたぶん次々と出てくるんじゃないかと思う。
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2019年10月06日

『国運の分岐点』デービッド・アトキンソン

ゴールドマンサックス社で長らく日本経済を研究されてきた著者。小西美術工藝社の社長でもある。
本書の主旨は、これまで経験したことのないスピードで高齢化と生産年齢人口の減少が進む日本において、日本経済が、日本が、破錠を逃れるためにはどうするべきか。結論として、最低賃金の引き上げによって、生産性を向上させることが必須。そしてそのためには生産性の悪い中小企業の数を減らすこと、統廃合することが欠かせないという。以下本文より引用をして見ます。

“「減る一方の生産年齢人口、増える一方の社会保障予算」というこの難題は、どの先進国も経験していません。だからこそ、人口増を前提とした経済理論、人口増時代に生まれた経済学に囚われず、科学と論理に基づいた対策が必要なのです。
では、このような「減る担い手、増える支出」のジレンマを解決するにはどうすればいいのか。
その解答が、私がここまで繰り返している「生産性の向上」です。人口の減少を食い止めることはできませんから、社会保障を維持するには、残された担い手の給料を増やしていくしかありません。給料を上げるためには、生産性向上は避けて通れません”

“人口減少社会において、「賃上げ」がきわめて大切だ]ということがおわかりいただけたと思いますが、一方で、「理論上はそうだが、そんなに簡単に賃上げができるわけがない」と主張される経営者の方も多くいらっしゃいます。
しかし、これは「できる」「できない」「大変だ」という次元の話ではなく、「国益」の問題なのです。

どういうことか、社会保障負担を例にご説明しましょう。
まず、いま現在の社会保障負担を生産年齢人口で割り、一人あたりの負担額を計算します。年間2000時間働くという前提で、1時間あたりの負担額を計算してみると、2020年では824円になります。
これはつまり、2020年に最低賃金が時給824円を超えている労働者はとりあえず最低限、社会保障分だけはどうにか負担できるということです。
ー これだけでも、かなり衝撃的ですが、未来に目を向けると皆さんが到底受け入れられないような厳しい数字が並びます。
2030年になると、1時間あたりの負担額は1137円です。
2040年は1642円、2050年1900円、そして2060年には2150円と、いまの賃金水準ではとてもまかないきれないほど社会保障負担が増えていくのです。
要するに、高齢者の増加と生産年齢人口の減少によって、将来的に、この国で働く人たちの基礎的なコストは激増するということなのです。”

“では、もしもその義務(「賃上げ」という義務)を経営者たちが放棄して、いまのまま賃上げをしなかった場合、日本の未来はどうなるのでしょうか。
1)若い人が破城する
2)高齢者が破城する
3)国が破城する
まず、社会保障制度を維持しつつ賃上げしていかないと、若い人たちの間に貧困が広がっていきます。
このシナリオでは社会保障費が増え、労働人口が減った分だけ税負担を増やすことになります。賃金が上がらないわけですから、経済的に困窮するのは当然です。生活に余裕がなくなるので、結婚や出産にも二の足を踏み、少子化にさらに拍車がかかります。
「だったらもう、社会保障制度そのものを見直したらどうだ」という人たちがいます。若い人たちの負担ばかりが増えるのは不公平なので、こんな制度はやめてしまえというのです。”

”ただ、これは感情論であって、現実的な選択肢ではありません。
超高齢化社会となる日本で、社会保障制度を諦めてしまうと、確かに生産年齢人口の負担は減りますが、今度は圧倒的多数を占める高齢者の貧困が激増しますので、個人消費も減ってしまうのです。
また、生活が苦しくなった高齢者が財産をどんどん売って現金化すれば、デフレ圧力もより激化します。
その財産には当然、外貨も含まれていますので、円高が急速に進んでしまう恐れも指摘されています。つまり、社会保障を諦めるということは、日本経済を負のスパイラルに陥らせてしまうだけで、何の問題解決にも繋がらないのです。”

”ならば、若者が破城せず、高齢者も破城しないという未来のためには、大企業が給料を上げたらどうでしょう。
トヨタなどの大企業が賃上げをしてもその効果は微々たるものです。日本の労働者の大半は、中小企業で働いています。先進国の中でも日本は大企業で働いている人の比率が異常に少ないので間に合いません。ですから、やるべきことはおのずと見えてきます。
中小企業が賃上げに成功して、日本の生産性が向上すれば、税負担が重くなっても日本というシステムはなんとか持ちこたえられます。しかし、これに失敗すると生産性が上がりませんので、労働者は重い税負担に耐えることができなくなります。日本は終わりです。
「それは極論だ」「賃上げだけではなくもっと他にできることがあるはずだ」という声が聞こえてきそうですが、ならば、企業が給料を上げず、いまの社会保障を続けていくとどうなるか考えましょう。
まず当たり前ですが、国の借金が増えます。
人口減少と高齢化によって社会保障負担が増えているにもかかわらず、給料が増えず、税収も上がらなければ、国はその差額を借金で賄うしかありません。
前述のように、2060年の労働者の1時間あたりの社会保障負担は2150円です。もし仮に最低賃金が1000円あたりの低い水準にとどまっていたら、極端な話、国が1150円を負担しなければなりません。それを日本の生産年齢人口で掛け算した額が、国の借金として毎年積み上がっていくのです。
やがて国家財政がもっと逼迫して、社会インフラの整備などのお金がさらに削られていきます。つまり、賃上げをしないで社会保障のコスト負担から逃げまわったとしても、この国に生きている限り、そのツケはいつか必ず回ってくるものなのです。”

“つまり、最低賃金を1000円に引き上げたことで倒産してしまうような、低賃金労働に依存した企業は、日本社会にとっても労働者にとってもマイナスでしかないのです。人手不足下でもあり、倒産をしてくれたほうがありがたいくらいなのです。
また、もっと厳しいことを言わせてもらうと、「賃金を上げれば会社が倒産する」という考え方をしている時点で、残念ながら経営者としての資質がありません。
本来経営は、「売り上げをいかに増やしていくのか」ということに尽きます。
賃金を引き上げたら倒産すると訴える経営者には、「成長」という視点がごっそり抜け落ちているのです。
つまり、経営者が「賃金を上げると会社が倒産する」と騒ぐことは、「私は経営者として無能なので、売り上げを増やすことができません」といっているのと同じことです。”

“日本は地震大国ですので、巨大地震によって社会が致命的な被害を受けるリスクを常に抱えています。

本来、日本は自然災害に備えるために世界一借金を控えるべき国家ですが、すでに国内の預貯金を超えそうな額の借金をしてしまっています。
そのようにただでさえ財政が厳しいところへ、首都直下地震が起きれば778兆円、南海トラフ地震で1410兆円という莫大な経済損失が20年にわたって発生するというダブルパンチで、日本の財政は急速に悪化していきます。

多くのエコノミストが言う、日本の借金はそこまで深刻ではない、という主張が、いかに頭の中がお花畑になっているような楽観論かということがわかります。歴史に学べば、これからやってくる巨大複合災害が、未曽有の人的被害だけではなく、深刻な財政危機をもたらし、日本という国のあり方を根底からかえてしまうような大きな「危機」であることは、動かしようのない事実なのです。そんな「破錠」と隣り合わせの地震大国が、GDPに対する借金を世界一の規模で膨らませている。この恐ろしい現実を、あらためて想起させられました。”


以上ながながと引用しました。
著者の書いていることがすべてその通りだと思うかどうかは別として、これからの日本において、政治・経済といった範疇にかかわらず、生活全般について考えていくうえで、避けて通れない問題提起であるように思います。
私は、経済における日本の国際的な地位の低下といったことはそれほど気にならないのですが、自分の子供たちが大人になるころに、この国が安心して生活していける環境であるかどうかといったことは気になります。
将来のこの国のイメージについて、かなりの楽観論から悲観論まで、世間にはさまざまな見通し・意見があります。どういった人の見通し・意見がより信頼できるか。以前にその人が述べたことが現在に当てはまっているかどうかを私は一つの指標にしています。その指標からすれば、アトキンソンさんの言われることは信頼性が高いように感じます。
メディアで目・耳にする政治家やコメンテーターの方々のなかには、「頭の中がお花畑」としか思えないような人が多いように感じます。そして、この本で述べられていることは、自身にとって耳の痛い内容が多々あります。零細な企業の一経営者として、すくなくとも「倒産をしてくれたほうがありがたい」というような会社であってはならないと感じますー



posted by 五人坊主 at 17:56| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする