2025年01月26日

土と脂

『土と脂』D.モントゴメリー、A.ビクレー著 2名の前著『土と内臓』が面白かったので購入、タイトルは?だった、原題 What your food ate :How to heal our land and reclaim our health からも内容はイメージしずらい。内容はおおきく3点、1つは作物の栽培方法と土壌の状態との相関、土の状態の違いによる作物の成育や収穫された作物の栄養状態の違いについて、2つめには、家畜が食べるものと家畜の健康状態との相関、および家畜が食べたものと畜産物の栄養状態との相関、3つ目には、それらの農畜産物の栄養状態と食べた人の健康状態(精神、身体ともに)との相関について。
1つ目については、化学肥料や農薬を大量に使用するようなモノカルチャーを続けていると、土は有機物、土壌微生物に乏しいやせた土になり、土は固くしまる、保水性や保肥力がなくなる、肥料が流亡する、作物は健康に育たず病気や虫が発生し農薬が必要となる、より多くの肥料や農薬がつかわれることでさらに生物に乏しいやせた土になっていく。一方で、有機物を施用したり、畑の表面を植物や有機物で覆ったりすることによって、さらに耕起をできるだけしないことによって、土中の有機物が増える、土が柔らかくなり保水力が増す、土壌の栄養分を可溶化して作物が吸収できるようにする微生物が増える、作物の養分吸収を助ける共生菌が増える、作物がより多くの栄養分をバランスよく吸収することで健康に育つ、健康に育った作物の収穫物は主要栄養分にくわえて微量要素やファイトケミカルが豊富になる。微量要素やファイトケミカルは、人の健康、免疫や老化防止に役立つものが多い。
2つ目については、集約的な肥育施設で、トウモロコシや大豆メインのハイカロリー配合飼料を主に食べている家畜においては、それぞれの家畜本来の食餌から摂取するべき栄養バランスとはかけ離れており、したがって不健康な状態になるものが多く、抗生物質が大量に使われ、搾乳牛や採卵鶏においては寿命が短くなる。一方で、自然放牧された家畜、新鮮な草木を食べて育った家畜は、健康状態に優れ、薬は少なくて済み、畜産物は栄養価の高いものになる。特に、新鮮な草木を食べて育った家畜においては、人の健康を維持するうえで必須の油脂がバランスよく含まれている。配合飼料で育てられた家畜から得られる肉、卵、乳などの製品においては、微量要素やファイトケミカル(抗酸化物質など)が乏しく、油脂のバランスがよろしくない、免疫反応において炎症を誘発する不飽和脂肪酸オメガ6が多く、炎症を抑制する不飽和脂肪酸オメガ3などの含有量が著しく少なくなる、これは穀類主体の配合飼料はオメガ6が多く含まれているのに対して、新鮮な草にはオメガ3が多く含まれていて、畜産物に含まれる油脂バランスは飼料中の油脂バランスがそのまま反映される。
3つ目としては、野菜や穀物といった農産物、肉、卵、乳といった畜産物、それらの育てられ方の違いによる栄養価の違いが人の健康にどう影響するのか、といったことが述べられている。主要な栄養素以外の微量要素、ファイトケミカル、油脂成分の違いによる影響などに主にフォーカスすることで、育てられ方の違いによる差が明らかにされている。タイトルにもなっている「脂」については特に詳しく書かれていて、近代農業における畜産物においては、免疫反応において炎症を誘発するオメガ6の割合が炎症を抑制するオメガ3に対して圧倒的に多く、そのことが自己免疫疾患(アトピー、アレルギーなどのようなもの)、糖尿病、肥満などの要因になっている一方で、神経系、精神系の疾患とも関連していることなどが取り上げられている。
土壌微生物について、また植物と菌との共生についての様々な研究の進展、自然環境問題、食料供給などにおける持続可能性と農業との関連についての諸課題への認識の深化、食事と人の健康についての栄養学的な研究の深化、など、個々の分野においては研究が進展して認識が日々深化していっているなかで、それらの課題に対して、土の健康状態-農畜産物の状態ー人の健康および自然環境の状態をより総合的にとらえて対応を判断し、やるべきこと、土の健康を取り戻す、農畜産物の健康を取り戻す、ということをやっていくべきだ、本書の趣旨はそういうことだといえる。簡潔にまとめるといろいろと語弊のある所もあるかもしれないが、この手の本にありがちな短絡的な決定論にならないように、多角的な視点を用いながら慎重な表現がされているのが感じられる。

この本にでてくるような環境再生型農業、リジェネラティブ農業、といった趣旨の論説、本をよく目にするようになってきた、人の健康と自然環境の持続性を考慮したやり方が農業、農における一つのトレンドとなってきているのかなと。もう一方のトレンドといえば、「環境制御型農業」、経済的な資本力のある経営体による自然環境に左右されずに安定的に生産可能な工業的な農業だろうと。いずれも並走する形でこの先進展していくんだろうなと。うちでやっている農業、農は前者の方向性なのだが、理想と現実にはまだ相当な開きがあるなと。この本で紹介されているカリフォルニアあたりの耕種農家の取組などは大変興味深いが、そのようなやり方を実際にうちで取り組んでいくとなると越えなければならない技術的な課題がたくさんあるなと。
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2025年01月05日

バスケタリーの定式と住居論

『バスケタリーの定式』関島寿子著、著者はカゴの作家、研究者。タイトルに「定式」とあるように、カゴの素材、形態は世界に無限というくらいあるが、著者は世界各地のかごを調べる中で、素材と構築法から6つの基本的なパターン・定式を抽出している。かごについて書かれた本はそれ以前にもあるが、カゴを立体的構築物として素材と構築法から分類したのは著者が初めてということで、分類に至る苦労と自負が感じられた。私自身かごではないが創作をするので、なにか参考になるような気がしたのと、「定式」という言葉に引っかかったのが本書を読んだ動機だった。私のメインの仕事は野菜の栽培、「有機栽培」でやっている、約60種類の野菜をハウス43棟、露地の畑30枚くらいでやっている。これだけでもかなり複雑になる、一方で、当初から野菜の種類が増えたところで、基本的なやり方、栽培方法は割とシンプルに考えられるのではないかと思っていた、いくつかのパターン、「定式」のようなものを考えれば、種類が増えてもそれの応用で対応できるのではないかと漠然と考えていたー

『住居論』山本理顕著は同じ出版社から出ている、『バスケタリーの定式』と新聞の広告で並んで出ていて、一緒に購入、バスケタリーはすぐに読んだが、住居論のほうはそれから半年くらいたってからこの年始に読んだ。
”実務経験なんて、と思っていた。そんなものいくら積んだところで、所詮行き着くところは知れている。ー 建築は具体的なものとしてある以前に、まず思考の対象としてあった。ー 平面図に表れるような空間の配列だと思っていたのである。どうも私の頭の中では徹底的に抽象化されていたのである。ー つまり、用途によってではなく、規範によって空間が配列されているということを認めることなのだと思う。振舞い方は、配列された空間によって決定的に拘束されている その配列は平面図によって確認できるはずなのだ。それこそ中心的な課題だと思い込んでいたのである。 平面図という図、ゲシュタルトのような像が建築だった。建築はなによりも抽象的な思考の対象であり、その結果だと思っていたものだから、実務経験のないことなどなんとも思っていなかったのであるー”
とあるように、著者は建築を概念的ー図式的にとらえ、「振舞い方」から空間の配列を考え、図式化、設計すれば、建築におけるメインの課題はクリアできると考えていた、が、そうやって自らが実際に設計ー建築をした建物ができてくると、設計段階ではわからなかった問題がいろいろと出てくる、(悪い意味で)思っていたのと違う、ということになったよう。本の中では設計の段階では全く問題としていなかった「素材」、その素材の違いによって建物の印象が全然違ってくる、ということが書かれている。本の中ではあまり触れられていないが、建物を建てる環境(自然環境、住宅環境)などによっても建物の印象はかなり違ってくるはず。そういったことは実際に建物を建てる、という実務経験を積むことでしか見えてこない面があるということだと。”イメージとしての像が現実の建築になるためには、とんでもない距離を飛び越えなくてはならないらしいのである”

私も、もともと学校の研究の延長で野菜の栽培を始めた類であった、どこか理論、概念優先のところがあって、「定式」「イメージ」がおさえられていれば実際の栽培は何とかなるような気がしていた。しかし実際は違った。土地の条件(土壌、日当たり、水はけ)の違い、天候(降雨、気温、風、日照)の違い、作業のやり方・タイミングなどによって野菜の出来は全然違ってくる。私がこの地で就農して間もないころ、土地などを世話してくれた地元のベテラン農家の方が、私を称して「俺たちは腕でつくるが、この人たちは頭でつくる」と半分揶揄するような感じで他の人に話をしていた。その時はいい気がしなかったが、なぜそういったのか今はよくわかる。一方で、「定式」「イメージ」のようなものを今でも大切にしている面もある。帰納と演繹を複雑に絡み合わせながら、「定式」「イメージ」を常にアップデートし続けている、それは明文化、図式化できるものになるのかどうかもよくわからないが、それを常に意識する、追い求めることはこの先もやめないと思う。
posted by 五人坊主 at 20:09| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2024年12月31日

庭の話

『庭の話』宇野常寛著、園芸の本ではない、「庭」というのはあくまで象徴的な表現で、社会理論的な内容。内容うんぬんはさておき読み物として面白い。浅く粗いが鋭く勢いがある。本書のなかで、ある著書を引用し、その認識不足・誤認している箇所を「恥さらし」と指摘しているが、本書も同様の指摘を受けても仕方がない箇所は随所にある。しかし、この本は学術書ではないし、そういうアラを指摘することにそれほど意味があるとも思えない。インターネットのプラットフォーム(FacebookやⅩ)における相互評価ゲーム、政治的なものにそれらが利用し・利用される在りよう。それらへの反動として、右の人たちも左の人たちも、共同体、コミュニティーの復権を説くが、結局は閉じた共同体による弊害は克服されない。いろいろな現代的課題に対して、著者は「庭」という概念で、人対人のコミュニケーションではなく、人ともの(自然、事物)とのコミュニケーションを模索している。要約すると色々と誤解が生じると思うのでやめておくが、趣旨はよくわかる。著者はコミュニティ・共同体のもつ負の面を極度に嫌悪している。ネットコミュニティにおける敵対者への誹謗中傷、会社や業界仲間の飲み会における欠席裁判的なもの、田舎の村八分的なものに対する批判は、そこまで強い言葉で言わなくても、というくらい強烈に、繰り返し批判している、批判自体は間違っていないのだろうが、それが強すぎるあまり、共同体的なものに対する否定がちょっと強すぎるかなと、また、それがある種のバイアスになっているのかな、という点は否めない。この本自体350ページを超えるボリュームのあるものだし、著者はかなり鼻息荒く「庭」的なもののありようを示しその必要性を説いているが、そのような概念を用いられていないだけでたぶん自然発生的にあちこちにできてきていることだと思う、世の中に、情報社会、分断・孤立の社会といわれる状況・課題を切実に感じ、それらをどうにかしたい、という思いを持った人はたくさんいる、そいういった人たちが行政やコマーシャルな動機付けとは別に、自然発生的な動機から何らかの対応をしていっていることのなかに「庭」という概念に該当するようなことも多くあるんじゃないかと思う。ただ、それらは著者自身がいうように、インターネットのプラットフォームを内破するほどの大きな力、動きにはなりえない、というのも確かなように思う。ただ、「ゲリラガーデニング」的にそういった動きが出てくることはある種必然であり、そういった”場所”や”こと”がプラットフォーム的なものに違和感を感じる人たち、共同体から仲間外れにされる人たち、既存の経済的な構造から追いやられている人たちにとって一つの居場所になりうることはあると思う。自分もまた小さな会社の経営者として、共同体的な負の側面を嫌悪する一人として、この方の提示するような「庭」的なものに共感するところも多い。経営本などの中には、チームワークを説くようなものが多い、そういうものを読むといつもわかる面もあり、違和感を覚える面もあり、確かに集団が目標・ビジョンを共有し、チームとして機能したときに単なる人の集まりではなしえないような大きな仕事ができる、ということは自身経験もあるしよくわかるが、そいうったチームの状態はたいてい長続きしないし、簡単に瓦解する、またチームに入れない人が疎外されるようなことも往々にしてある。かといって個々がバラバラのままだとそれはそれでうまくいかない。本書の中に「コレクティフ」とか「アグリゲーター」という概念が出てくるが、”人とものとのコミュニケーション”という視点から、これらの概念からよいやり方を考え応用していくことが必要に感じる。
posted by 五人坊主 at 11:54| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする