2021年02月15日

『経済学批判(経済学批判序説)』ノート

『経済学批判』(マルクス)は、のちの『資本論』へとつながる、商品、貨幣、流通などの分析を、国民経済学、ブルジョア経済学を批判的に踏まえながら行っている。
『資本論』の導入部分にあたり、上述のような用語、概念、またそれらの関係を正確に把握することが『資本論』を読み解くうえで欠かせない、のだろうが、細部の理解・了解はさておき、ざっくりと読んでみたという感じ。
『資本論』の基礎部分をなすだけあって、深く堅牢な作りになっている。安易に要約や抜粋ができるような感じではない。

附録として「経済学批判序説」が掲載してある。マルクスの“生産=消費”についての理論については吉本隆明が度々引用しているが、直に書かれている箇所をいくつか引用して自らの参照としたい

「生産は直接にまた消費でもある。主体的かつ客体的な二重の消費である、すなわち、生産することでその能力を発展させる個人は、また生産の行為でこの能力を支出し消耗するが、それは、自然的生殖が生命力の消費であるのとまったく同じことである。第二に、生産は生産手段の消費であり、生産手段は使用され消耗されて、一部分は、一般的な諸元素にふたたび分解される。同じように、生産は原料の消費でもあり、原料はその自然の姿と性状のままではいないで、むしろなくなってしまう。だから生産の行為そのものは、すべての要因でまた消費の行為でもある」

「消費は直接にまた生産でもあるが、それは、自然界において諸元素や科学的諸成分の消費が植物の生産であるのと同じである。たとえば消費の一形態である食物の摂取によって、自分が自分自身の肉体を生産することはあきらかである」

「消費は生産を二重に生産する。つまり、消費においてはじめて生産物は現実的な生産物になるのだから。たとえば衣服は、着るという行為によってはじめて実際に衣服になる」
「消費が生産を生産するのは、消費があたらしい生産の欲望を創造し、こうして生産の前提であるところの、生産の精神的な、内部からこれをおしすすめる根拠を創造するからである。消費は、生産の衝動を創造する、またそれは、生産において目的を規定するものとして作用する対象をも創造する。生産が消費の対象を外側から提供することがあきらかであるとすれば、このことから、消費が生産の対象を、内的な像として、欲望として、衝動として、また目的として、精神的にうみだすことも、同じくらいあきらかである。」

「したがって生産は、消費の対象、消費の仕方、消費の衝動を生産する。同じように、消費は、生産の目的を規定する欲望として生産者にうったえることによって、生産者の計画を生産するのである」
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2021年02月12日

『経済学・哲学草稿』ノート

はからずも本を読む時間ができたので、読めないでいた本を何冊か読んだ。
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(カール・マルクス)、『資本論』は途中で窒息して投げ出したままになっていたが、この本はレヴィ・ストロースが再三読み返しては力を得ていた、といったことを書いており、いつかは読もうと思っていた。
本のボリュームもなく、比喩が多様にとりいれられており、物語のように読めた。ルイ・ボナパルトの帝政復古というめちゃくちゃな、普通に考えればありえないような出来事がなぜ成立したのか、多面的、複相的に、もちろん分析的・論理的にも、緻密でない分躍動感をもって描かれていた。

それに勢いを得る形で、『経済学・哲学草稿』を読んだ。こちらは、吉本隆明が初期マルクスとしてよく言及している本であったから。
ひととおり読んで、新鮮に、納得のいったものとして、マルクスの用いる用語・概念としての“疎外(労働疎外、自己疎外など)”がある。章としては“疎外された労働”のところ。
労働がその人にとって疎外されたものであるとはどういうことなのか、労働の結果としての生産物が疎外されているとはどういうことなのか、そして、人間的本質(類的な存在)において、また自然としての人間(自ら自然の一部であるとともに、活動をとおして自然を対象とする存在として)として、自分自身からの疎外(自己疎外)、自然の疎外(普遍的なものからの疎外)とはどういうことなのか…
とくに、“自然を疎外する”ということを了解する上で、自然ー人間について書かれた下記の文に要点が示されているように感じた。

「類的生活は(普遍的な、制約のない存在としての生活)は、人間においても動物においても、物質的にはまずなにより、人間が非有機的自然によって生活するということを内容とする。そして人間が動物よりも普遍的であればあるほど、彼がそれによって生活する非有機的自然の範囲もまた、それだけいっそう普遍的である。植物、動物、岩石、空気、光などが、あるいは自然科学の諸対象として、あるいは芸術の諸対象としてー人間の精神的な非有機的自然、精神的な生活手段としてー理論上において人間的意識の一部を形成するように、それらは実践上においてもまた、人間的生活や人間的活動の一部分を形成する。これらの自然生産物が、食料、燃料、衣服、住居などのいずれのかたちで現れるにせよ、とにかく人間は物質的にはこれらの自然生産物によってのみ生活する。人間の普遍性は、実践的にはまさに、自然が直接的な生活手段である限りにおいて、また自然が人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において、全自然を彼の非有機的肉体とするという普遍性のなかに現れる。自然、すなわち、それ自体が人間の肉体でない限りでの自然は、人間の非有機的身体である。人間が自然によって生きるということは、すなわち、自然は、人間が死なないためには、それとの不断の交流過程にとどまらねばならないところの、人間の身体であるということなのである。人間の肉体的および精神的生活が自然と連関しているということは、自然が自然自身と連関していること以外のなにごとをも意味しない。というのは、人間は自然の一部だからである」

精神的なものの疎外として宗教ー神があるなど、疎外の概念がこれまでよりかなり明確になった。
本書の後半では、労働疎外を止揚し、人間的本質を取り戻すところの共産主義、社会主義について述べられている。
また、精神的なものをすべての基盤とする、マルクスのいうところの“自然”が抜けているヘーゲルにおいては、各止揚の行き着くところが結局“無”であるに過ぎないと痛烈だった。
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2020年11月15日

生きる はたらく つくる

『生きる はたらく つくる』(皆川明著)
ミナペルホネンの創業者・デザイナーの皆川さんが、自らの来歴を書いた本。淡々と描かれているようで、一語一語が丁寧に書かれている、皆川さんの仕事(服飾の仕事)におけるスタンスが文章にも表れているように感じる。

”働くことは本来、クリエイティブなことだと思う。服の裾上げも、生地の裁断も、仮縫いも、マグロをさばくのも(かつて魚市場でアルバイトをしながら服飾の仕事をしていた経験から)、自分でつくった服をクルマにのせて営業にでかけるのも。一着も売れずに、そのまま帰ってくることでさえも。
”失敗すること、うまくいなかいこと、評価されないこと。クリエイティブの種になるものは、そこでこそ、大事な芽がでてくる可能性がある。自分の場合はそうだった”

”たったいま、すぐに何か特別なことをしなさいと言われても、ぼくにはそれができない。じっくり考えるうちに、試行錯誤を重ねるうちに、じょじょに理解をふかめてゆくほうが、安心してものづくりにとりくむことができる。

”ぼくたちがさまざまに、お客様に提供しようとしているものとはなにか。
それは、「よい記憶」となることではないか。そう思うようになった。最終的には、かたちそのものが目的ではなく、人のなかに残る「よい記憶」をつくるきっかけになるもの。それをつくりたいのだ。
”何をすべきかを考えるとき、ジャンルや事業の分類にはこだわらず、どんな「よい記憶」にしたいかということだけを丁寧に考えていればいい。つくるべきものがなんであっても、「よい記憶」となることさえ忘れなければ、おのずとやるべきことが見えてくる”

”ぼくは不完全で足らない人間だと思う。
服をつくることで、やっと世の中とつながることのできる人間でしかないのかもしれない。ときどき、ぼくは自分自身が気づいていない、ぽっかりと空いた穴を埋めようとして、ここまでやってきたのかもしれない、と考えることがある。”

”コントロールできないおおきな海に浮かびながら、手と足だけは動かすことをやめないでいる。息もしている。海の下で動いている海流が、ぼくをどこかに運んでいるのがわかる。突然、目の前にあらわれた小さな島に、這い上がる。そこでなにかをつくりはじめる。
その島が、ミナペルホネンになった”

皆川さんが言われていることは、自分の実感に非常に近く、励まされる思いで読み終えた。休日の、精神のいい栄養になった・・・



posted by 五人坊主 at 15:58| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする