2017年10月08日

ノート 『吉本隆明未収録講演集 物語と人称のドラマ』 “『遠野物語』と『蒲団』の接点” からの抜粋 その他

以下(吉本隆明未収録講演集<8> 『物語と人称のドラマ』「『遠野物語』と『蒲団』の接点 1992年」より)
― ところで、それまで花袋の親友であり、仲間でもあった柳田國男などは、『蒲団』という作品を見て初めて花袋に対して違和感を感じ、それで花袋の『蒲団』をつまらない嫌な作品だ、というふうに言い出すわけです。
― 柳田國男がときになぜそう云ったかという理由を、花袋が死んでからですけれども、書いているわけですけれども、それは、じぶんは田山花袋にいろんな素材になりうるような話を語って聞かせた。ある時、じぶんがちょうど法制局の参事官をしていて、いろいろな裁判の記録とか、犯罪の記録とかを読みまして、そのなかで特赦・恩赦に該当するものを捜し出す、というような役をしていたときにぶつかった話があり、それを田山花袋に聞かせたことがあると云っています。

― それはどういうことかというと、ひとつは、西美濃の山の中に炭焼きがいて、子どもが二人、女の子と男の子がいて、その炭焼きが町へ出て炭を売りに行くんだけれど、なかなか売れなくて、憔悴して帰ってくるのを毎日のように見ていて、それを見かねて、ある時、まさかりのようなものを研いで、父親が帰ってきたとき、父親が気の毒なのでこのまさかりをやって、それでじぶんたちは小屋の敷居のところに首を、枕を並べてこう横たわって、それで父親に殺してくれと云って、それで父親のほうは、とうとう食糧もなくなってきていたので、ついふらふらとして、その子ども二人をまさかりで殺してしまうわけです。

― それで犯罪に問われるわけですけど、柳田國男はその裁判所の記録を読んで、こんなすごい人間の赤裸々なドラマはないと感動します。それで田山花袋にそれを語って聴かせた、そうしたら田山花袋いわく、それはあまりに深刻過ぎて小説にならない、というふうに云ったと柳田國男は書いています。

― 花袋たちの現実暴露とか、現実の凄まじさを描き出すんだと主張しているその自然主義の主張なんていうのは、たかが知れているものなんだ。じぶんがこういう深刻極まりなく、また、ある意味で感動せざるを得ないというような、何というか、人間のドラマというのを花袋に聞かせてあげたんだけれども、花袋のほうは全然それは駄目だ、それはあまりに深刻過ぎて、小説にはならないみたいなことを云った。つまり、花袋らの自然主義というのは、現実暴露とか、現実描写とか云っても、たかが知れていて、その程度のものなんだと柳田國男は書いています。

― 柳田國男の深刻な人間ドラマみたいなものから見れば、花袋の、例えば『蒲団』なんていうのは、本当にじぶんが結婚していて、細君もいて子どももいて、それで生活していて、そこに女弟子をとって同居させたら、いったいどういうことになるかぐらいのことは、やらない前から判っているはずなのに、そういうことをしてなるようになって、それでその女性のほうは文学を続けていく志よりも、恋人と一緒に同棲して、それで一緒に暮らすことのほうが重大になっていった。つまり、どう考えても女弟子のほうもつまらない挫折の仕方をするし、じぶんもまたもともとどうなるか判っていることをしでかして、それに嫉妬を感じて、その女弟子が残した蒲団をかぶって泣くなんてのは、まったくなっていない人間喜劇だと云っていいくらいなってないことなので、自然主義の現実暴露なんて、この程度の卑しい小さいものなんだというのが、柳田國男の観点です。

― ただ僕らが見ますと、柳田國男のこの観点は、なるほどその通りだといえばいえるのですけれど、別の面から云いますと、社会的な地位のある法制局参事官がそういう裁判記録を読んで、それで感動してこれは深刻なんだというふうに云っているので、深刻さ自体をじぶんが演じているわけでも何でもない。つまり、割合いに大所高所から深刻な事態を深刻な記録を見て、これは人間のドラマだといっていることだというように云えば云えるわけです。

― それに対して田山花袋は、何ていったらいいんでしょうか、目の高さと云いましょうか、目の高さというのはいつでも、普通の人、平凡な人、いわゆる普通人の目の高さというものを持っているわけです。それで目の高さに映っている人間の卑しさも善さも、全部含めて描き出すというのが、花袋が主張する、自然主義の主張であるわけです。

― つまり、じぶんが少しでも上のほうの目から眺めて、それでここに深刻な事態があると云っているのではなくて、じぶんも同じ普通人の目の高さで見て、それで、普通の人の持っている卑しさも善さも全部含めてそれを描く。社会通念に反してもそれを描き出すというのがじぶんの主張なので、その主張からみれば、柳田國男というのはいわば、自分自身は大所高所に立っていて、それで、深刻な事態の記録を見て、これは深刻なんだ、それで自然主義はそんなのは描かないだろうと云っているので、花袋のほうから見れば、そのほうがずっとたやすいことなので、それよりもやはりじぶんのように、同じ世間の人と、おあるいは平凡な人と同じ目の高さに降ってくる、人間の卑しさというのも善さというのも描き出して、売り出していくという、そういう考え方の方が一見、真実に見えなくても、はるかに深刻さというものを生かし、またじぶんが体験しているんだということが田山花袋の観点であるわけです。

―『遠野物語』の背後には、農政学者としての柳田國男の見識もありますし、それから、民俗学というものを、まったく新しく、西欧の民俗学と同じような意味合いで作っていこう、という柳田國男の背後の膨大な世界があるわけです。それは、文学者としての花袋にはとても見えないところでして、『遠野物語』を文学としてだけ読むと、やはり田山花袋のいうように、これは、粗雑を装った道楽みたいなもんなんだというようにしか見えないところがあったと思います

― 柳田國男の方から見ると、花袋は卑しい人の卑しいことをこう、ずけずけと書いている。何があれがいいんだ、何があれが文学なんだ、というのが柳田國男の批判になると思います。

― けれども、柳田國男のその批判にも、やはりひとつの欠落があると思います。その欠落は何かというと、花袋があくまでもごく普通の人を同じ目で、普通の人のその目に映る卑しさも善さも、それから心の事実も、現実的なことにしても、全部見事に描きつくそう、社会通念がどうあろうと描きつくそうということの意味を、柳田國男はとても受け入れられなかったということだと思います。つまり、そこが両者の分かれ目ですし、また、日本の文学、近代というもの全体の、一種のもの悲しさだといえると思います。

― 日本近代の悲劇は、さまざまありますけれども、いちばん大きなことは、要するに伝統ということと、伝統的な因習でもいいんですけれども、もっと遡ると有史以前の、地名とか、人の名前とか、鳥の名前とかというのが最初に付けられたところまでいくと、歴史以前になるわけですけれども、そういう日本の伝統的な過去というものと、それから未来を目指すものとの間には、片方は反動で保守的で、もう一方は進歩的で西欧模倣的でといわれて、日本の近代というのは、いちばん激しく分裂してきたわけです。お前は保守的で反動的で、伝統主義者、あるいは民族主義者だというふうに片方がいうかと思うと、もう片方は、お前は伝統のよさも何も、ぜんぜん忘れてしまって西欧の真似ばかりしているだけじゃないか、というふうに云っているというような分裂の仕方は、単に文学だけじゃなくて、あらゆる面での、日本の近代の悲劇の最たるものなわけです。つまり、悲劇のいちばん大きなものは、そういうところにあるわけです。そういうところになってしまう、別れ方の最初の道というのは、田山花袋と柳田國男が非常によく象徴しているわけです。

― どちらが正しいか、というような言い方を仮にして見れば、今申しあげたとおり、欠落というものがどちらにもあるということになります。そうすると、この分裂というものを、そうじゃないんだと、つまり過去に遡ることと、未来を目指すことは、云ってみれば同じ事なんだというぐあいに、この分裂はしなくていいものなんだというような課題は、依然として今もあるわけです。今も僕らはそれを課題にしているということができます。(以上 『遠野物語』と『蒲団』の接点 より)

最近の国政政治の喜劇=悲劇を思うに、この柳田國男―田山花袋に象徴される近代の悲劇はいまも変わらずといった感じのよう。ただ、最近では、“革新的保守”系の人たちは、自由主義経済を推し進めることで元来彼らが絶対視しているはずのナショナルなものの存立を細らせ相対化していこうとしているといえるし、“保守的革新”系の人たちは、「日本の農業を守る」という主張に象徴されるように元来彼らが相対化しようとしているナショナルなものを無自覚に保守しようとしているというおかしなことになっている気がする。

政治に関する世論調査を見聞きしていると、回答率はだいたい60%程度。支持率が一番高い自民党で30%。60%×30%で実質18%程度。支持する政党はない、という人がだいたい40%。無回答の多くは特定の政党を支持していない可能性が高いとすれば、実際60%以上のひとが特定の政党を支持していないということがいえると思う。
国政選挙の投票率は、その時々で変動するとはいえ、大きくいえば下降してきているといえる。今回は30%~40%台になるんじゃないかと思う。仮に自民党が得票率で50%としても、実際の支持率は40%×50%で20%。公明党と合わせても30%を超えることはないと予想できる。

今の国政政治、政党政治、議会制民主主義は成り立っていないといえば言えてしまいそうな気がする。多くの識者はこういう事態を憂えると思う。ただ、専制政治もポピュリズムもごめんこうむりたいといえ、さりとてどうなればよいのかというのはまだはっきりしてこないように思う。投票率が30%を割るようなことになってくれば、事実上議会制民主主義は破城状態だといえると思うのだが、それが歴史的な前進なのか後退なのかよくわからない―

今回の選挙の争点のひとつは憲法の改正にある。私は9条に関しては護憲がいいと思っている。理想を現実の方へ降ろすようなことをしないほうがよいと思う。他の条項に関しては正直良く知らない。実際に改憲を望む人たちが多くいることは確かだと思う。大いに議論したらいいと思うのだが、護憲派のいわゆるリベラルな政党の人たちは、議論すること事態を悪いことのように言っているような感じがする。共産主義を標榜する国々がことごとく専制政治、官僚主義に堕していったことに対する内省がなければ、今後もこういった政党が支持を伸ばすことは難しいと思う。国会における負け癖かどうかわからないが、議論することさえならんというのではなく、そこはもうちょっと民主的に考えた方が良いはずだと思う。他の法律とは違って、憲法に関しては改憲・護憲の判断は最終的には国民の直接投票によるはずなので、正々堂々議論して護憲の主張を訴えて国民の支持を得るべきなのではないのか―

いわゆる政治に関して、私はいろいろ考えたことがある。いわゆる政治的なことに関して、過去はさておき、これからは直接政治にかかわるよりも民間で頑張ったほうが有効なことを達成できる可能性が大きいのではないか、というのが自分なりの結論だった。この人は何事かを成した、といえるような政治家が最近ではすぐに思い当たらない、ということもあるかもしれない。たとえば国際平和に関して、後世にも引き継げるより意義あることを成し遂げたいのであれば、政治家になるよりもNPO法人でもなんでもよいのでお金と人に責任をもって国際交流を実際にしていくような活動を地道する方がいい、農政を変えたいのであれば、官僚や政治家が参考にするくらいの理想の農園を作り上げればよい、というような感じ。そういった考えは今も変わっていないように思う。政治家や官僚が参考にしてくれるかどうかは別にして、自分は一農家・一農園経営者として、自らが理想と思う農園を形にするべく頑張っていくのがいいんじゃないかと思っている。
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2017年05月09日

空が青いから白をえらんだのです

NHKラジオ深夜便の4時代はインタビュー形式で、各分野の様々な方々が登場して1時間弱話をする。
朝のストレッチをしながらぼんやりと聞くことが多いが、興味のある話のときは最後まで聞き入ってしまうこともある。
寮美千子さんは詩や小説を書かれているようであるが、ラジオで知るまでは知らなかった。先日(再放送で)話をされていた寮さんは奈良少年刑務所で"社会性涵養プログラム"の講師をしており、その時のことについて話されていた。
"社会性涵養プログラム"とはなにか、というと、挨拶の仕方やコミュニケーションの取り方を実地を交えて学ぶソーシャルスキルトレーニング、"言葉からも日常からも解放されて無心に絵を描"く美術、童話・詩をもちいた"言葉を中心とした情操教育"の3つからなっている。寮さんはそのなかの「童話と詩」の授業をうけもっていたそうだ。
刑務所や少年院で行われる、いわゆる"更生のための教育"について私は何も知らない。ただ、簡単ではないことは容易に想像がつくし、そもそも"人は変わる(更生する)ことができるのか"ということ自体が賛成・反対の意見が分かれるところであると思う。(学校で行われる"道徳教育"には子供のころから違和感を感じていた。"道徳"を教えれば人が道徳的になるというのはあまりに人間に対する認識が足りないような気がするのだが・・・)

"「社会性涵養プログラム」と名付けられたプロジェクトの対象は、刑務所のなかでも、みんなと歩調を合わせるのが難しく、ともすればいじめの対象にもなりかねない人々。極端に内気で自己表現が苦手だったり、動作がゆっくりだったり、虐待された記憶があって、心を閉ざしがちな人々だ。
「家庭では育児放棄され、まわりにお手本になる大人もなく、学校では落ちこぼれの問題児で先生からもまともに相手にしてもらえず、かといって福祉の網の目にはかからなかった。そんな、いちばん光の当たりにくいところにいた子が多いんです。ですから、情緒が耕されていない。荒れ地のままです。自分自身でも、自分の感情がわからなかったりする。でも、感情がないわけではない。感情は抑圧され、溜まりに溜まり、ある日何かのきっかけで爆発する。そんなことで、結果的に不幸な犯罪者となってしまったというケースもいくつもあります。先生には、童話や詩を通じて、あの子たちの情緒を耕していただきたい」(『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』のあとがき「詩の力、場の力」より"

寮さんが依頼を受けたときに当時の教育統括の方から言われたことの中に、"犯罪"が起こる普遍的な要因の一つが語られているように思う。"受刑者たちは、加害者であると同時に、この社会の被害者なのかもしれない"-

"はじめて教室に集まったときは、なぜか、そこにいる一人一人の人間の形が、はっきりと見えてこない。どっしりと土の塊が座っているような無表情な者がいる。手を差し出せば、警戒してさっと逃げてしまう野良猫の子のような態度の者もいる。なんでこんなところにいるんだと言わんばかりの不機嫌な様子の者がいる。姿形はさまざまで、その態度もさまざまなのに、彼ら一人一人の印象がはっきりしない。おそらくは、交流感がないからだ。だから、その生命の力を感じない。彼らは、見えない壁の向こうにいる。"

"授業は全6回。最初の会では絵本『おおかみのこがはしってきて』を教材にする。この絵本は、アイヌ民話を題材にしたもので、父と幼い息子の対話という形で話が進んでいく。子供の質問に、父親が答えていくなかで、自然の大きな仕組みに気づいていくという物語だ。
絵本の概要を話した後、それぞれに朗読してもらう。それも、アイヌ風の上着や、アイヌの刺繡のハチマキなどを用意して、父と子の姿に扮し、みんなの前でお芝居のように演じてもらうのだ。
教官が、フェルトで父親役のヒゲを作ってきてくださったことが、功を奏した。役になることは、一種の仮面をつけること。その仮面のおかげで、普段は人前で発言するのも苦手な子も、なんとか人前で演じ切ることができるのである。
いかつい体の大きなレスラーのような子が「子ども役をしたい」と言ったときには、驚いた。彼は実にかわいらしい子どもを演じてみせてくれた。
「彼は、子どもらしさを出してこられなかったんです。家庭の事情で、小さいときから、大人のふりをして生きてこなければならなかった。だから、自分のなかの子どもを開放したかったんでしょう」と教官。演じたあとの彼は、いい顔をしていた。"

"足を広げてふんぞり返って座っていたOくんは、俳句をほめられたことをきっかけに、腰かける姿勢まで変わってしまった。授業に興味を持って、身を乗り出すようになった。
自傷傾向があり、情緒の安定を欠くKくんは、妄想や空想をノートに書きつけ、心から取り出して客観化するようになった。すると、心が落ち着き、醸し出す雰囲気さえ変わってきた。いまでは、仲間から人生相談を受け、答えてあげる立場にまでなっている。
人間、たった6か月、18回の授業を受けただけで、そんなに変われるなんて、と、わたしは我が目を疑った。ビギナーズ・ラックで、たまたまうまくいったのだと最初は思っていた。
ところが、そうではなかった。今回、5期目が終了したが、効果が上がらなかったクラスは一つとしてない。ほとんどの受講生が、明るい、いい表情になってきて、工場の人間関係もスムーズになる。
そんな受刑者の変化を感じた工場担当の刑務官の先生方が、彼らを適切なポジションに配置してくださる。すると、工場全体に、更生に向けて前向きの明るい雰囲気が漂うようになるという。一人の変化が、全体に影響する。悪循環の反対の、良循環の始まりである。
 
彼らの大きな変貌ぶりを思うと、わたしはなんだか泣けてきてしまうのだ。細水統括のおっしゃるとおりだった。彼らは、一度も耕されたことのない荒れ地だった。ほんのちょっと鍬を入れ、水をやるだけで、こんなにも伸びるのだ。たくさんのつぼみをつけ、ときに花を咲かせ、実までならせることもある。他者を思いやる心まで育つのだ。彼らの伸びしろは驚異的だ。出発点が、限りなくゼロに近かったり、時にはマイナスだったりするから、目に見える伸びの大きさには、目をみはらされる。
こんな可能性があったのに、いままで世間は、彼らをどう扱ってきたのだろう。このような教育を、もしずっと前に受けることができていたら、彼らだって、ここに来ないですんだのかもしれない。被害者も出さずに、すんだのかもしれない。「弱者」を加害者にも被害者にもする社会というものの歪みを、無念に思わずにはいられない。

わたしは改めて「社会性涵養プログラム」の効果の大きさに驚き、何が効果を上げたのか、それを自ら問い直してみることになった。
たったひとつの要因で、奇跡のようなことが起きるわけがない。複数の要因が互いにいい影響を与え、結果として目に見える効果をあげているに違いない。
第一に、刑務所の教官の方々の熱心さが挙げられるだろう。月に三回の「社会性涵養プログラム」のときだけでなく、工場で、日常生活で、彼らをよく観察しさりげなく声をかけ、励まし、信頼関係を築いている。さらには、彼らの犯罪歴だけでなく、その生育歴まで把握し、常にその背景を考慮しながら対処していらっしゃる。だからこそ、受講生は、教室で安心して心を開くことができるのだ。

また、このプログラムが、異なる三つの要素から成り立っていることも、おおきな要因だろう。-気持ちのよい挨拶の仕方を学び、それを刑務所生活で生かす。気持ちを伝える方法を学び、喧嘩をうまく回避する。そんなことの積み重ねが、彼らの日常をより「生きやすく」してくれる。
そんな日々のなかで、無心になって絵を描く時間があり、宿題の詩を一人で書いて自分と向きあう時間があり、それを合評する時間がある。そのすべてが、各方面から、じわじわと氷を融かすように、徐々に心のこわばりを取り、彼らのなかに押し込まれていたものを、安心して表現できるようになるのではないか。
そして、何より「グループワーク」という「場の力」だ。一対一の対応とはまた別種の、独特に密度の高い時間が出現する。十名ほどの受講生と、講師、複数の教官とが一つの大きな「座」を作っている。そのなかで、さまざまな意見が交わされ、互いの意見に耳を傾けあう時間がある。自分が発表しているときは、残りの全員が、自分に耳を傾けてくれる。朗読を終えたときも、みんなが拍手をしてくれる。十数名からの拍手を得られるということの大きさ、誇らしさ。もしかしたらそれは、彼らにとって、生まれて初めての体験かもしれない。
この有機的な交流が、その場をよき温床として、彼らの芽をぐんぐん伸ばしていく。その速度たるや、驚くばかりだ。
わたしは、彼らと合評していて、驚くことがあった。誰ひとりとして、否定的なことを言わないのだ。なんとかして、相手のいいところを見つけよう、自分が共感できるところを見つけようとして発言する。大学で授業をしても、批評と称して相手の人格さえ否定するような罵詈雑言を吐く学生がいるのに、ここではなぜかそんなことはない。
― 先生方は、普段から、彼らのありのままの姿を認め、それを受けいれているというメッセージを発信し続けていらっしゃる。そのメッセージを受けとった者は、同じように仲間のありのままを受け入れようとする。すると、受刑者のなかに、互いに受け入れ、高めあおうという前向きの雰囲気が、自然と醸されてくるのだ。

もうひとつ、心底感じたのが「芸術の力」だ。とくに「詩」に関しては、わたし自身、詩に対する考え方が変わるほどの大きな衝撃を受けた。
「物語の教室」で、童話を読み、詩人の書いたすぐれた詩を読む。それだけでも、もちろん彼らの様子は違ってくるのだが、目に見えて何かが大きく動くのは、彼ら自身に「詩」を書いてもらい、それを合評する段階に入ってからだ。
たとえ、それが世間でいう「詩」に似ていなくても、それは確かに「詩」だ。日常の言葉とは違う言葉だ。ふだんは語る機会のないことや、めったに見せない心のうちを言葉にし、文字として綴り、それを声に出して、みんなの前で朗読する。
その一連の過程は、どこか神聖なものだ。そして、仲間が朗読する詩を聞くとき、受講生たちは、みな耳を澄まし、心を澄ます。ふだんのおしゃべりとは違う次元の心持ちで、その詩に相対するのだ。
すると、たった数行の言葉は、ある時は百万語を費やすよりも強い言葉として、相手の胸に届いていく。届いたという実感を、彼らは合評のなかで感じとっていく。
その「詩の言葉」が、人と人を深い次元で結び、互いに響きあい、影響しあう。

わたし自身、詩を書くものであるのに、詩の言葉をどこかで信用していなかった。詩人という人々のもてあそぶ高級な玩具ではないか、と思っている節さえあった。
けれど、この教室をやってみて、わたしは「詩の力」を思い知らされた。それまで、詩など、なんの関係もなかった彼らのなかから出てくる言葉。その言葉が、どのように人と人をつなぎ、人を変え、心を育てていくのかを目の当たりにした。それは、日常の言語とは明らかに違う。出来不出来など、関係ない。うまいへたもない。「詩」のつもりで書いた言葉がそこに存在し、それをみんなで共有する「場」を持つだけで、深い交流が生まれるのだ。
大切なのは、そこだと思う。人の言葉の表面ではなく、その芯にある心に、じっと耳を傾けること。詩が、ほんとうの力を発揮できるのは、実は本のなかではなく、そのような「場」にことあるのではないか、とさえ感じた。"

先に挙げた本から長々と引用した。断片的な引用で済まそうと思いつつ、どの言葉も大切なような気がしてきて長くなってしまった。ただ、こういった言葉を読んでわかったような気になっただけでは本当はなんの意味もないのかもしれないと思いつつ―
世の中、当たり障りのない言葉や否定的な言葉で満ち溢れていて(典型的なのは皮肉にも"えらい先生方"の国会でのやりとりだったりするのだが)、それだけで気が滅入ってくることもある。
ラジオから聞こえてきた寮さんの語りに、心底救われた思いだった。

" 
くも
空が青いから白をえらんだのです

Aくんは、普段はあまりものを言わないこでした。
そんなAくんが、この詩を朗読したとたん、堰を切ったように語りだしたのです。
「今年でおかあさんの七回忌です。おかあさんは」病院で
『つらいことがあったら、空を見て。そこにわたしがいるから』
とぼくにいってくれました。それが、最後の言葉でした。
おとうさんは、体の弱いおかあさんをいつも殴っていた。
ぼく、小さかったから、なにもできなくて・・・」
Aくんがそう言うと、教室の仲間たちが手を挙げ、次々に語りだしました。
「この詩を書いたことが、Aくんの親孝行だと思いました」
「Aくんのおかあさんは、まっ白でふわふわなんだと思いました」
「ぼくは、おかあさんを知らないので、この詩を読んで、
空を見たら、ぼくもおかあさんに会えるような気がしました」
と言った子は、そのままおいおいと泣きだしました。
自分の詩が、みんなに届き、心を揺さぶったことを感じたAくん。
いつにない、はればれとした表情をしていました。

たった一行にこめられた思いの深さ。そこからつながる心の輪。
目を見開かれる思いがしました。"
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2017年02月17日

土と内臓

『土と内臓』(D・モントゴメリー+A・ビクレー著)はタイトルが秀逸だと思う。原題は“The Hidden Half of Nature:The Microbial Roots of Life and Health”なので、邦題は訳者(出版社)が結構大胆に書き換えたといえるが、これがはまっているように思う。原題をそのまま訳していれば、あるいは手にとることもなかったかもしれない。
この本は専門書ではなく、微生物と人との関係を網羅的に広く適度に深く紹介し、最新の知見からこれからの微生物と人とのかかわりを、特に農業(土と植物)と医療(食と身体)の分野から展望しようとしており、微生物に関して素人からある程度知見のある人までどんな人でも読めるような類の本になっている。
顕微鏡の発明に伴う微生物の発見から、微生物に対する人の認識・扱い方の歴史的変遷もまとめられているが、発見以来数十年前までは、どちらかというと人にとっても植物にとっても病気の素という見方が優勢で、長らく退治・排除するべき対象という存在であった(かなり以前から微生物の重要性・有用性を訴えるマイノリティーはいたとして)。その結果として抗生物質や農薬が数多くつくられ、大きな成果を上げてきた一方で、抗生物質の耐性菌の問題や薬剤耐性を持った病害虫の増加なども問題となってきている。近年の土壌微生物や腸内細菌の研究の発展から、微生物の働きが植物(生態系)や人にとって欠くことのできない役割を果たしていることが明らかになってきており、これまでの厄介な“ばい菌”的認識は改められていくであろうし、新たな知見に基づく農業や医療分野への応用が今後ますます活発になっていくことが予感される内容になっている。
土壌(農業、植物生理)、医療のそれぞれの分野ごとに、微生物の観点から書かれた専門書は多々あると思う。一方で、最近明らかになってきている科学的知見を踏まえて双方を網羅的に把握しようという本はあまりないと思う。興味深い最近の知見が多々書かれていてとても要約しきれないが、私がとりわけこの本が独特であり良書であると思うポイントは以下のようなものだ。

1.植物の根圏と人の腸内との相似性が明らかにされている
2.庭いじりと家庭菜園にかかわった実体験から土壌に対する興味をもち、それに基づいて知見を広げていった過程と、自らガンにかかった経験から食べ物-腸内の生態系に興味を持ち知見を広げていった過程がそれぞれ書かれていることで、各分野の専門的知見がリアルな“人存在”から遊離していない(客観的な事実や知見の記述だけでなく、かといって主観的・恣意的な記述になってしまっていない)
3.微生物に対する人のとらえ方の歴史を俯瞰することで、微生物・人・植物・生態系にたいする高次元・立体的なとらえ方ができるようになっている(それぞれの細部・専門性は薄くなったとしても)
4.文学性がある(比喩が多過ぎてかえってわかりずらくしているところもあるが)

とりわけ1.に関しては、植物の根圏と人間の腸内の間の興味深い相似性が何点か明らかにされている。
①栄養摂取に関する微生物の働き
②免疫・防御に関する微生物の働き
③相互依存・共生のしかた
④微生物の種類の相似性
⑤根と腸の形態的相似性
などをあげることができる。

①に関して。自然の植物は、必要とする養分の多くを土から直接吸収できるわけではない。分子が大きすぎたり、他の分子とくっついているがために吸収できなかったり、水に溶けない状態で存在していたりするからだが、微生物は大きな分子を細かくしたり不溶性の物質を可溶性にしたりすることで、植物は栄養を吸収することができる。同様に人が食べたものも、人が分泌する胃酸や消化酵素だけで吸収されるまでに細かくなるものとそうでないものがあり、大腸に多く住む微生物によってはじめて分解吸収される栄養素のなかには人の健康においてきわめて重要なものが多くある。
②に関して。植物の病害虫に対する防御反応や人の疾病にたいする免疫反応に微生物が深くかかわっており、それぞれ微生物なしでは人も植物も病害虫に対して極めて脆弱な存在である。とりわけ人の免疫反応において、過剰な防御反応が引き起こす自己免疫疾患や慢性疾患(糖尿病など)などは、腸内環境、微生物のバランスを改善することで症状が大幅に良くなることが明らかになってきている。
③人も植物も、自らにとって有用な微生物を囲っておくために、微生物のエサとなる物質を根や腸から滲出させ、住みかとなる場所を提供する。そして、根においても腸においても表面の細胞では微生物は半ば植物や人の体内に入り込み、半ば外に出ておりという感じで存在している。そのように存在しながら養分を供給したり免疫系にかかわったりしているものがある。
免疫学者の多田富雄さんの著書で、人の免疫系から見た“自己”とはなにか、という科学的―哲学的な内容の本があったが、このような植物や人の体表・境界に存在している微生物は自己―非自己の境界にいるような存在だといえる(少なくとも免疫系はある種の常在菌を自己として認識していることになる)。
④根圏にいる微生物も腸内にいる微生物も、いずれも腐生菌(死んだ植物を栄養源にする菌)の系統に属するものが多い。いずれも高分子の複合糖質を栄養源として、植物においては有用な有機酸やアミノ酸をつくり、人においては有用な乳酸や単鎖脂肪酸をつくり、植物や人の成長・健康に役立っている。
⑤"植物の根を、根圏も何もかも一緒に裏返したとすれば、それが消化管に似ていることに気づくだろう。"
まったく同様のことを解剖学者の三木茂夫が本で書いていたと思う。発生学的にみると、動物の受精卵は細胞分裂を繰り返す中で胚表面が内側に陥入して反対側に突き出る。この陥入の入り口側が口となり、出口側が肛門となるのだが、この内側に入り込んだ内臓部分は植物の根に相当することを指摘していたように思う。また三木茂夫は、交感神経系-体壁系が頭(理性など)と深く結びついているのに対して、人の心はこの自律神経系-内臓部分と深く結びついていることを指摘していたが、この本の最後のほうに次のようなことが書かれていた。
"(大腸に住む微生物のあるものが)人間の感情をつかさどる神経伝達物質セロトニンを作れるなどと、誰が考えただろう。私たちの腸内細菌が、神経系と情報伝達をしているというだけでなく、人間の感情の状態は腸内細菌に ―そしてそれが作り出す代謝産物のスペクトルに― 影響されうるのだ"

最後に、うまくまとめるのが大変なので引用で済まします。
"農業害虫の復活、土壌肥沃度の低下、危機的レベルの抗生物質耐性菌の出現、寿命を縮める慢性疾患、これらはすべて無関係に見えるが、根の部分は微生物生態系の攪乱でつながっている -
生態学者のあいだで有名な偶像的人物、アルド・レオポルトは、オオカミを撲滅することが名案だと考えられたとき、(アメリカ)南西部の植生に何が起きたかを見ていた。シカの個体数が爆発的に増えて森を食べつくした。土地は丸裸になり、シカの餌が足りなくなった。牧場主や野生生物担当の政府職員は、肉食獣を撃てば土壌が侵食され、シカが餓死するなどとは考えてもみなかった。
こうしたことは微生物の扱いにとって何を意味するだろうか。見方を育てながら、人間、作物、家畜を害虫や病原菌から守る、新しい方法を見つけ出さなければならないということだ。私たちは、生態学者の精神、園芸家の気配り、医師の技術をあわせ持つ必要がある。自然の隠れた半分と協力することで、一見無関係な幅広い環境問題と健康問題に対処できる意外な―そして意外にも効果的な―方法への道が見えてくるからだ"
posted by 五人坊主 at 17:45| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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