2020年02月19日

オーバーストーリー

『オーバーストーリー』リチャード・パワーアズ著は、アメリカにおけるある天然木ー原生林をめぐるある闘争を、多様な登場人物の視点から、多角的な視点からみるような物語となっている。長編であり、登場する人物も多様であり、その登場人物たちが交錯したりしなかったりと、かなり複雑なストーリーだった。喩の使い方、物語の展開のしかたが良くできているのか、割と読みやすく、ストーリーを純粋に楽しめた。

一読すると、作者の環境問題に対する立場というものがわりとはっきりしているように感じる、環境左翼的な立場なんじゃないかと。アメリカで言えば、共和党支持者のような人たちはあまり読まないか、読んでも肯定的な感想を持たないだろうし、民主党支持者にはうけるんじゃないかという感じ。

ただ、本書は、環境問題ー原生林保護に関するような問題は、そういう政治的な立場を超える問題であることを示そうというモチーフがあるように思う。環境問題ー原生林の保護活動のようなものは、政局的な扱いで政策や取り扱いが左右されるような類のものではないとー

科学、政治、法、芸術、社会運動、精神分析、人工知能といった、多角的な視座を用いて描いていることがこの物語の大きな特徴であり、そのいずれに関してもわりと深い理解の上に書かれているように思う。作者が目指したいのは、環境ー原生林保護のような課題は“本当のところどうなの?”というのを、“いま、できる限りトータルにとらえてみたい、表現してみたい”ということなんだと思う。本書の最後のほうで、生態系にかんするあらゆるデータをAIによって集積・解析することではじめて見えてくるものがあるんじゃないかということが示唆されている・・・天然自然と人に関する事柄の徹底的な客観化・相対化、そして統合へ・・・


作者のモチーフが成功しているかどうかは別として、作者の知見の広さと深さ、表現・喩の見事さはそれだけでとても魅力的だった。読んでいるあいだ、聞くとはなしにStefano BattagliaのPelagosをかけていたのだが、これが作中の”ミマス”をめぐる静かなで美しい抵抗運動の場面のためにつくられたBGMとしか思えないほどはまっていて、なんともいえずよかったー
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2019年12月25日

悲しき熱帯

『悲しき熱帯』レヴィ=ストロース著。

30歳前の若きレヴィ=ストロースがいかにして民族学の世界にはいっていったのか、そして、駆け出しの民族学者としてのブラジルでの調査のことが主に書かれている。

同著者の『野生の思考』は、構造主義的民族学という新しい学問を確立するべく書かれた著書であり、学術的な意味合いが強い。一方、『悲しき熱帯』は、その書名からして情緒的な感じがすることからもわかるように、学術的というよりは、自身の民族学者としての最初期のことをおよそ20年後に思い返しながら書く“思い出話”的な感じになっている。

第二次世界大戦時の、フランスから南米への難民船のような状態での船旅、内陸部の調査においては、トラック、騾馬、牛、船などの手段を駆使して調査目的の民族の暮らす奥地へ分け入る様子が描かれている。雨季でぬかるんだ道をトラックに積んだ板を渡しては回収し渡しては回収し数メートルずつ前進する場面。乾季で乾燥しきったサバンナでは、コオロギやトカゲ、ウジのわいた肉を食べて餓えをしのいだり、荷を運ぶ牛がばたばたと飢え死にしたり、一人道に迷って騾馬にも逃げられたり。アマゾン川の支流を船でさかのぼる行程では、滝、岩場、浅瀬のたびに荷物を解いて、船を担いで迂回し、再び船に荷物を固定してーといった作業を繰り返しながら遡上する様子。ときには同伴のスタッフが銃の暴発で手の平をふっとばしてしまったりと、なかなか過酷な調査であったことがうかがえる。

本書ではいくつかの民族を訪れ調査したことが取り上げられているが、その記述、筆致から、最も著者の思い入れが深いと感じられるのは、ナンビクワラ族であるといえる。民族学の調査の持つ意義の一つを、著者はルソーの言葉を引用しながら述べている。”「もはや存在せず、恐らく決して存在しなかったし、これからも多分永久に存在しないであろうが、それについての正確な観念をもつことは、われわれの現在の状態をよく判断するために必要である」一つの状態を求め続けた”とし、”ルソーより幸運にも、私は一つの滅びかけた社会のなかに(ナンビクワラ族のなかに)それを発見した、と思った” というように、学術的な意義において、ナンビクワラ族は特別な存在であったといえる。

ただ、著者にとってナンビクワラ族が特別な存在であったことは、その学術的な意味においてのみではなかった。
ナンビクワラ族は、ほとんど身につけるものをもたない裸族である。ハンモックも持たず、夜は裸で地面に寝る。道具についても ”ナンビクワラ族の生活用品を収集しに行った人は、集めたものを並べてみてがっかりしてしまう。それは、人間の製作物の集まりというより、むしろ拡大鏡を通して眺められた、巨大な蟻の産物といった様相を示しているからである。実際、ナンビクワラ族が高く伸びた草のあいだを縫うように歩いていく様は、蟻の隊列を思わせる。女はめいめい、嵩ばる、目の粗いかごを運んでいくが、それはよく蟻が卵を運んでいく時にみられる光景に似ている”
要するに、ナンビクワラ族は最も物質的には原初的な様相を示しているのであるが、調査のための滞在中に彼らと接したときの描写から伝わってくるのは、人と人との豊かな情感を伴った交流の様子である。
無垢な女・娘たちとのやりとりや、偉大な人格者然とした二人の族長に関する記述から、文化人類学の調査といった文脈を超えて心揺さぶられた様子が伝わってくる。ある章の末に、レヴィ=ストロースの当時の調査記録のメモ書きが記されている。
”ー 彼らみんなのうちに、限りない優しさ、深い無頓着、素朴で愛らしい、満たされた生き物の心があるのを、人は感じる。そして、これら様々な感情を合わせてみる時、人間の優しさの、最も感動的で最も真実な表現である何かを、人はそこに感じるのである”

以下、私の好きな一節を引用
“ルシンダは、小さな雌の尾巻き猿で、皮は薄紫、毛は淡い灰色で、その特徴である膨れた腹のために、普通、バリグード(太鼓腹)とよばれるラゴトリクス属の猿である。私は、それが生後何週間かの時、ナンビクワラのインディオの女からもらった。
― 朝から晩まで、足のすぐ上に四つ足でしっかりと取り付いているのだった。馬に乗っているときはこの位置は可能だったし、カヌーでも全く問題がなかった。徒歩で旅をする段になると、話は別であった。茨や枝や水溜りに踏み込む度に、ルシンダは甲高い叫びをあげる破目になったからである。彼女に、私の腕か肩か、せめて髪の毛でも承知させようと、どんなに骨折っても無駄だった。彼女には左の長靴でなくてはならず、それは彼女が生まれ育ったこの森の中で、唯一の保護者であり安全な場所だったのだ。まるでルシンダが文明の洗練の中で育てられたかのように、僅か数か月の人間との生活で、森は彼女にとって馴染みのないものになってしまっていたのである。こうして、左足でびっこを引き、踏み外す度に刺すような咎めを受けながら、私はアバイタラ(トゥピ=カワイブ族の族長の一人)の背中を見失わないように努めた ー”

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2019年11月30日

贈与論

『贈与論』はマルセル・モースの著書。1925年だからほぼ一世紀前の本。
レヴィ・ストロースの『野生の思考』とともに、そのうち読もうと思いつつ読んでいなかったのであるが、レヴィストロースの本においても取り上げられていたこともあり、また、『本屋は死なない』のなかでも触れられていたこともあり、そういった流れで読んだ次第。

本書の前半は、当時の各種の民族学的調査研究から浮かび上がる各民族の“贈与(ポトラッチ、全体的給付)”のあり様が記されている。その中で、ほぼ世界普遍的にみられる「贈与」というのが“全体的(全体的社会的事象)“なものであり、単なるモノのやりとり、経済的な交換とは全くことなるものであるとされる。全体的とは、法的、経済的、宗教的、美的、形態学的であるということであり、物質的でありかつ精神的・情的なものであるとされる。こういったとらえ方は、のちの時代の構造主義的文化人類学へとつながるものであることがわかる。

贈与・ポトラッチは、無私無欲な奉仕的なものでは決してないが、贈与においては"もの"は単なるモノではなく、ものには贈った者の魂がついてまわる。贈られた者は債務者となり、受け取ったものより多くをお返しをする義務が発生する。無制限な利益追求のようなことには決してならない、レギュレーション的なものである。モースがことさら「贈与」のありようが“全体的(全体的社会的事象)”であることを強調するのは、資本主義社会の興隆以来、生活(全体的社会的事象)から“経済“のみが離床し、それがすべての上位にあるようなありさまになっている、そしてそれがあたかも普遍的であるかのようになってしまっていることに対する異議という意味合いがある。

そもそもモースの『贈与論』に興味を持ったのは20年ほど前になるだろうか。吉本隆明の『アフリカ的段階について』の中で、第一次産業主体の社会から第二次産業が主体となる社会へ、第二次産業から第三次産業へ、さらに第n次産業へと高次化していくのは一方では必然であるとしながらも、現代においても自然採集・狩猟で生活している民族が共存していることに対して、一方では産業の高次化、文明の進化がかならずしも必然・必要ではないということがありうる、というようなことが書かれていた。世界的に産業が高次化していく中で、第一次産業を担う地域と産業が高次化した地域との経済格差という問題が必然的に起こってくるのであるが、それを解消するのが“贈与”ではないかと。実際に先進国からいわゆる途上国に対するODAなどは、返済を期待しない貸し付け=贈与になっているのではないかと。こういった理屈には賛否あるかもしれないが、当時の自分にはそういう捉え方もあるのかと新鮮であった記憶がある。

国際的な地域間格差は、日本国内においても同様の構図がある。大都市圏における産業の高次化と経済的な優位性に対して、一次産業や二次産業の比率は地方において高くなり、給与水準や利便性は低くなるというように。
この地域間格差をどうするのかという課題に対して、地方交付金やふるさと納税のような制度は「贈与」ということもできるかもしれない。また、産業が高次化している都市においてはモースのいうような“全体性”は薄れ、なんにつけ機能分化された感じがする一方で、地方においては良くも悪くも“全体的”な名残があり、牧歌的ではあるが経済的な合理性から外れていく傾向はあるといえる。

『本屋は死なない』の中では、メディア(本を含む)というものは利益事業に還元できないところがあり、メディアがそもそも有するはずの公共の目的・社会的使命のようなところを、すべて収益事業化することには無理があるのではないか、という文脈のなかでモースの“贈与論”が取り上げられていたと思う。
一方で、同じような流れで、農林業が論じられることがある。農業は食糧安全保障であったり、自然災害の予防的機能(水田の湛水機能など)であったり、景観や環境保全的な意味であったりと、農林業において収益部分にとどまらない多様な機能・役割があり、収益性のみで判断されるべきではない、という感じで。
上記のような考え方を敷衍すれば、メディアや農林業においては、完全に民営化すればよいというものではなく、公共として支えられてしかるべき、ということになる。実際、メディアではNHKのような公共放送が存在するし、農林業に対しては多額の補助金が出ており、中山間地域のような条件不利地であっても農業経営が成り立つような対策が多々なされている。

国もしくは地方自治体の財務状況が悪化することが、このような地域間格差の問題にたいしてどう影響してくるのかといえば、自治体内部において、また国全体として、よりスマートシティー化、経済的に合理化していくという方向性で動いていかざるを得ないと思う。また、メディアや農林業における公共性といったものに対しても、収益性向上に対する圧力が高まることは確かだと思う。
自由主義的に推し進めることがよい部分と、公共的なものをどう支えていくのかという問題は、これから新しい次元での解決が必要になってくるのであろうが、モースの“贈与論”はいまなお課題解決に対する示唆を含んでいるように思う。



posted by 五人坊主 at 06:30| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする