2017年10月08日

ノート 『吉本隆明未収録講演集 物語と人称のドラマ』 “『遠野物語』と『蒲団』の接点” からの抜粋 その他

以下(吉本隆明未収録講演集<8> 『物語と人称のドラマ』「『遠野物語』と『蒲団』の接点 1992年」より)
― ところで、それまで花袋の親友であり、仲間でもあった柳田國男などは、『蒲団』という作品を見て初めて花袋に対して違和感を感じ、それで花袋の『蒲団』をつまらない嫌な作品だ、というふうに言い出すわけです。
― 柳田國男がときになぜそう云ったかという理由を、花袋が死んでからですけれども、書いているわけですけれども、それは、じぶんは田山花袋にいろんな素材になりうるような話を語って聞かせた。ある時、じぶんがちょうど法制局の参事官をしていて、いろいろな裁判の記録とか、犯罪の記録とかを読みまして、そのなかで特赦・恩赦に該当するものを捜し出す、というような役をしていたときにぶつかった話があり、それを田山花袋に聞かせたことがあると云っています。

― それはどういうことかというと、ひとつは、西美濃の山の中に炭焼きがいて、子どもが二人、女の子と男の子がいて、その炭焼きが町へ出て炭を売りに行くんだけれど、なかなか売れなくて、憔悴して帰ってくるのを毎日のように見ていて、それを見かねて、ある時、まさかりのようなものを研いで、父親が帰ってきたとき、父親が気の毒なのでこのまさかりをやって、それでじぶんたちは小屋の敷居のところに首を、枕を並べてこう横たわって、それで父親に殺してくれと云って、それで父親のほうは、とうとう食糧もなくなってきていたので、ついふらふらとして、その子ども二人をまさかりで殺してしまうわけです。

― それで犯罪に問われるわけですけど、柳田國男はその裁判所の記録を読んで、こんなすごい人間の赤裸々なドラマはないと感動します。それで田山花袋にそれを語って聴かせた、そうしたら田山花袋いわく、それはあまりに深刻過ぎて小説にならない、というふうに云ったと柳田國男は書いています。

― 花袋たちの現実暴露とか、現実の凄まじさを描き出すんだと主張しているその自然主義の主張なんていうのは、たかが知れているものなんだ。じぶんがこういう深刻極まりなく、また、ある意味で感動せざるを得ないというような、何というか、人間のドラマというのを花袋に聞かせてあげたんだけれども、花袋のほうは全然それは駄目だ、それはあまりに深刻過ぎて、小説にはならないみたいなことを云った。つまり、花袋らの自然主義というのは、現実暴露とか、現実描写とか云っても、たかが知れていて、その程度のものなんだと柳田國男は書いています。

― 柳田國男の深刻な人間ドラマみたいなものから見れば、花袋の、例えば『蒲団』なんていうのは、本当にじぶんが結婚していて、細君もいて子どももいて、それで生活していて、そこに女弟子をとって同居させたら、いったいどういうことになるかぐらいのことは、やらない前から判っているはずなのに、そういうことをしてなるようになって、それでその女性のほうは文学を続けていく志よりも、恋人と一緒に同棲して、それで一緒に暮らすことのほうが重大になっていった。つまり、どう考えても女弟子のほうもつまらない挫折の仕方をするし、じぶんもまたもともとどうなるか判っていることをしでかして、それに嫉妬を感じて、その女弟子が残した蒲団をかぶって泣くなんてのは、まったくなっていない人間喜劇だと云っていいくらいなってないことなので、自然主義の現実暴露なんて、この程度の卑しい小さいものなんだというのが、柳田國男の観点です。

― ただ僕らが見ますと、柳田國男のこの観点は、なるほどその通りだといえばいえるのですけれど、別の面から云いますと、社会的な地位のある法制局参事官がそういう裁判記録を読んで、それで感動してこれは深刻なんだというふうに云っているので、深刻さ自体をじぶんが演じているわけでも何でもない。つまり、割合いに大所高所から深刻な事態を深刻な記録を見て、これは人間のドラマだといっていることだというように云えば云えるわけです。

― それに対して田山花袋は、何ていったらいいんでしょうか、目の高さと云いましょうか、目の高さというのはいつでも、普通の人、平凡な人、いわゆる普通人の目の高さというものを持っているわけです。それで目の高さに映っている人間の卑しさも善さも、全部含めて描き出すというのが、花袋が主張する、自然主義の主張であるわけです。

― つまり、じぶんが少しでも上のほうの目から眺めて、それでここに深刻な事態があると云っているのではなくて、じぶんも同じ普通人の目の高さで見て、それで、普通の人の持っている卑しさも善さも全部含めてそれを描く。社会通念に反してもそれを描き出すというのがじぶんの主張なので、その主張からみれば、柳田國男というのはいわば、自分自身は大所高所に立っていて、それで、深刻な事態の記録を見て、これは深刻なんだ、それで自然主義はそんなのは描かないだろうと云っているので、花袋のほうから見れば、そのほうがずっとたやすいことなので、それよりもやはりじぶんのように、同じ世間の人と、おあるいは平凡な人と同じ目の高さに降ってくる、人間の卑しさというのも善さというのも描き出して、売り出していくという、そういう考え方の方が一見、真実に見えなくても、はるかに深刻さというものを生かし、またじぶんが体験しているんだということが田山花袋の観点であるわけです。

―『遠野物語』の背後には、農政学者としての柳田國男の見識もありますし、それから、民俗学というものを、まったく新しく、西欧の民俗学と同じような意味合いで作っていこう、という柳田國男の背後の膨大な世界があるわけです。それは、文学者としての花袋にはとても見えないところでして、『遠野物語』を文学としてだけ読むと、やはり田山花袋のいうように、これは、粗雑を装った道楽みたいなもんなんだというようにしか見えないところがあったと思います

― 柳田國男の方から見ると、花袋は卑しい人の卑しいことをこう、ずけずけと書いている。何があれがいいんだ、何があれが文学なんだ、というのが柳田國男の批判になると思います。

― けれども、柳田國男のその批判にも、やはりひとつの欠落があると思います。その欠落は何かというと、花袋があくまでもごく普通の人を同じ目で、普通の人のその目に映る卑しさも善さも、それから心の事実も、現実的なことにしても、全部見事に描きつくそう、社会通念がどうあろうと描きつくそうということの意味を、柳田國男はとても受け入れられなかったということだと思います。つまり、そこが両者の分かれ目ですし、また、日本の文学、近代というもの全体の、一種のもの悲しさだといえると思います。

― 日本近代の悲劇は、さまざまありますけれども、いちばん大きなことは、要するに伝統ということと、伝統的な因習でもいいんですけれども、もっと遡ると有史以前の、地名とか、人の名前とか、鳥の名前とかというのが最初に付けられたところまでいくと、歴史以前になるわけですけれども、そういう日本の伝統的な過去というものと、それから未来を目指すものとの間には、片方は反動で保守的で、もう一方は進歩的で西欧模倣的でといわれて、日本の近代というのは、いちばん激しく分裂してきたわけです。お前は保守的で反動的で、伝統主義者、あるいは民族主義者だというふうに片方がいうかと思うと、もう片方は、お前は伝統のよさも何も、ぜんぜん忘れてしまって西欧の真似ばかりしているだけじゃないか、というふうに云っているというような分裂の仕方は、単に文学だけじゃなくて、あらゆる面での、日本の近代の悲劇の最たるものなわけです。つまり、悲劇のいちばん大きなものは、そういうところにあるわけです。そういうところになってしまう、別れ方の最初の道というのは、田山花袋と柳田國男が非常によく象徴しているわけです。

― どちらが正しいか、というような言い方を仮にして見れば、今申しあげたとおり、欠落というものがどちらにもあるということになります。そうすると、この分裂というものを、そうじゃないんだと、つまり過去に遡ることと、未来を目指すことは、云ってみれば同じ事なんだというぐあいに、この分裂はしなくていいものなんだというような課題は、依然として今もあるわけです。今も僕らはそれを課題にしているということができます。(以上 『遠野物語』と『蒲団』の接点 より)

最近の国政政治の喜劇=悲劇を思うに、この柳田國男―田山花袋に象徴される近代の悲劇はいまも変わらずといった感じのよう。ただ、最近では、“革新的保守”系の人たちは、自由主義経済を推し進めることで元来彼らが絶対視しているはずのナショナルなものの存立を細らせ相対化していこうとしているといえるし、“保守的革新”系の人たちは、「日本の農業を守る」という主張に象徴されるように元来彼らが相対化しようとしているナショナルなものを無自覚に保守しようとしているというおかしなことになっている気がする。

政治に関する世論調査を見聞きしていると、回答率はだいたい60%程度。支持率が一番高い自民党で30%。60%×30%で実質18%程度。支持する政党はない、という人がだいたい40%。無回答の多くは特定の政党を支持していない可能性が高いとすれば、実際60%以上のひとが特定の政党を支持していないということがいえると思う。
国政選挙の投票率は、その時々で変動するとはいえ、大きくいえば下降してきているといえる。今回は30%~40%台になるんじゃないかと思う。仮に自民党が得票率で50%としても、実際の支持率は40%×50%で20%。公明党と合わせても30%を超えることはないと予想できる。

今の国政政治、政党政治、議会制民主主義は成り立っていないといえば言えてしまいそうな気がする。多くの識者はこういう事態を憂えると思う。ただ、専制政治もポピュリズムもごめんこうむりたいといえ、さりとてどうなればよいのかというのはまだはっきりしてこないように思う。投票率が30%を割るようなことになってくれば、事実上議会制民主主義は破城状態だといえると思うのだが、それが歴史的な前進なのか後退なのかよくわからない―

今回の選挙の争点のひとつは憲法の改正にある。私は9条に関しては護憲がいいと思っている。理想を現実の方へ降ろすようなことをしないほうがよいと思う。他の条項に関しては正直良く知らない。実際に改憲を望む人たちが多くいることは確かだと思う。大いに議論したらいいと思うのだが、護憲派のいわゆるリベラルな政党の人たちは、議論すること事態を悪いことのように言っているような感じがする。共産主義を標榜する国々がことごとく専制政治、官僚主義に堕していったことに対する内省がなければ、今後もこういった政党が支持を伸ばすことは難しいと思う。国会における負け癖かどうかわからないが、議論することさえならんというのではなく、そこはもうちょっと民主的に考えた方が良いはずだと思う。他の法律とは違って、憲法に関しては改憲・護憲の判断は最終的には国民の直接投票によるはずなので、正々堂々議論して護憲の主張を訴えて国民の支持を得るべきなのではないのか―

いわゆる政治に関して、私はいろいろ考えたことがある。いわゆる政治的なことに関して、過去はさておき、これからは直接政治にかかわるよりも民間で頑張ったほうが有効なことを達成できる可能性が大きいのではないか、というのが自分なりの結論だった。この人は何事かを成した、といえるような政治家が最近ではすぐに思い当たらない、ということもあるかもしれない。たとえば国際平和に関して、後世にも引き継げるより意義あることを成し遂げたいのであれば、政治家になるよりもNPO法人でもなんでもよいのでお金と人に責任をもって国際交流を実際にしていくような活動を地道する方がいい、農政を変えたいのであれば、官僚や政治家が参考にするくらいの理想の農園を作り上げればよい、というような感じ。そういった考えは今も変わっていないように思う。政治家や官僚が参考にしてくれるかどうかは別にして、自分は一農家・一農園経営者として、自らが理想と思う農園を形にするべく頑張っていくのがいいんじゃないかと思っている。
posted by 五人坊主 at 21:16| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする