2018年05月14日

ゆっくり、いそげ

『ゆっくり、いそげ』は、東京の西国分寺駅近くで喫茶店“クルミドコーヒー”を経営する影山知明氏が書いた本。NHKラジオの朝の番組で影山氏がたまにお話をされているのを聞いて、彼の考えに興味を持って購入。

自らのコーヒー店経営における数々の取組から、理想的な経済・社会のありようを模索してきた筆者の考えや取組の軌跡が記されている。大手外資系企業や投資会社(ベンチャーキャピタル)で働いた経験があることから、経済・経営に関しての知見が広いことが感じられる。いまの経済の大きな流れのなかで大事なものが失われていっているのではないか、大きな流れとは違った経済・社会のありようがあってもよいのではないか・・・。考え方や取組自体が画期的というわけではないかもしれないが、コーヒー店の経営を通して理想を形にしていこうと模索・試行し続けている著者の思索と行為の積み重ねが、ある厚みをもって感じられる内容になっている。

いくつか興味のあるテーマを選んで、それぞれに内容を抜粋してみる。

<クルミドコーヒーでポイントカードをやらない理由>

“それはひと言で言うならば、お店に来てくださる方の「消費者的な人格」を刺激したくないと考えたからだ。それとは、「できるだけ少ないコストで、できるだけ多くのものを手に入れようとする」人格。つまりは「おトクな買い物」を求める人間の性向だ。・・・同じコーヒーとケーキを食べるならできるだけ安く食べたい。もしくは同じ額を支払うのであれば、できるだけ多くのものを手に入れたい。こういう心理はだれしもがもっている。そしてこのことは合わせ鏡のようにお店の姿勢にも影響を与える。・・・同じ1000円を受け取るのであれば、お店として支払うコストはできるだけ小さくしようとする。ケーキなんて一からお店で焼かなくてもいいし、コーヒー豆だって焙煎後1カ月くらいは使ったっていいんじゃないか・・・つまりお客さんとお店とが、それぞれに自己の利益を最大化させるべく行動選択する交換メカニズムが働く。
・・・こういうことを続けていくと短期的には利益が出たとしても、一つ一つの仕事に時間や手間はかけられなくなり、長い目で見ると「1000円」の中身はどんどん空っぽになっていってしまいかねない・・・”

“人はいい「贈り物」を受け取ったとき、「ああ、いいものを受け取っちゃったな。もらったもの以上のもので、なんとかお返ししたいな」と考える人格をも秘めている・・・これは、前に述べた「消費者的な人格」とは真逆の働きをする。自分が手に入れるものより、支払うものの方が大きくなるわけだからだ。これを「受贈者的な人格」と呼ぼう。
世に「消費者的な人」と「受贈者的な人」とがいるわけではないということだ。ことはそれほど単純ではなく、きっとあらゆる人の中に両方の人格が存在し、時と状況によってそれぞれが発現するのだ。
・・・だから問題になるのはお店がお客さんの中に眠るどちらの人格のスイッチを押すかということ。
・・・ポイントカードやポスティングをやるということは、ともすればお客さんの中の「消費者的な人格」スイッチを押すことになる。そして、そうしたお客さんの姿勢ははね返り、お店のありようをも変える。”

<駅前がチェーン店ばかりになる理由>

“資本主義の場合、個人は自身の経済的利得を最大化するべく振る舞うことが想定される。資本主義の場合のそれ(「期待される成果」や「目的」)は、個人の利益の最大化と、システム全体として生み出す経済的価値の最大化だ。そしてそのシステムへの参加者は、システムが期待する「成果」を生み出す方向へと行動を駆り立てられる。その方向付けのことを、ここではシステムの「力学」と呼んでいる。重要なのは、その過程では個々人の意思や主観は、副次的なところに追いやられるということだ。
・・・システムの力学が想定できるようになると、都心の駅前がどこもかしこもチェーン店で埋め尽くされていく状況もその理屈で理解ができる。
・・・例えば再開発などで出店可能な床(敷地)ができたとする。この物件の貸主が個人だとしたら、その個人の意思やこだわりで「こんなお店を」「こんな使い方を」と貫き通すことができるかもしれない。場合によっては採算度外視なんてことさえあるかも知れない。
・・・ただ多くの場合(再開発の場合などは特に)、貸主は組織化され、複数の人が関わる状況となっている。すると途端に話は難しくなる。「こんな開発をしよう」というゴールイメージの合意形成が難しいのだ。議論をしてもまとまらない。
となると、みなが納得する選択肢として「収益の最大化」がプロジェクトの落としどころとなる。
・・・そして重要なのはこの過程において、改めて、「個人として」そういう駅前にしたいと思っている関係者はほとんどいないということだ。
・・・生産や取引の効率を極限まで高めようと思えば、より大きなものへと統合し、「規模の経済」を働かせようとするのが論理的な帰結だ。
そうして「大きなシステム」が形成されるその過程で、「特定の人にとっては大事だけれど、普遍化しにくい」ような価値は取引の対象ではなくなり、その居場所をなくしていく。”

<「特定多数」の個人が直接にやり取りすること>

”多元的な価値を取り扱うシステムデザインのヒントが、ミュージックセキュリティーズでの取り組み(クラウドファンディングのさきがけのような取り組み、著者はこの法人の取締役でもある)に隠されている。ポイントは「特定多数」「個人」「直接」だ。
まず不特定多数ではなく特定多数の参加者を想定する。
そうすることで、金銭換算しにくいようなものも含めて「特定の人々にとって大事な価値」を取り扱えるようになる。
ミュージックセキュリティーズのファンド1つの平均的な参加者数は100~300人ほど。その特定の人々にとっては、「純米酒をつくる蔵が守られること」や「日本の森がきちんと手入れされ未来につなげられること」は金銭同等か、場合によってはそれ以上の価値を持つ・・・

また参加者が「個人」として参加していることも重要だろう。
「組織」としての参加となると、その組織内部の合意形成という問題がでてくる。そうすると「なぜその価値が大事なのか」という判断についての説明を求められるようになる。
そうなると「客観的に説明可能な」価値は支えられるかもしれないが、そうでないものは難しくなる・・・

そして、そうした価値のキャッチボールが「直接」に行われる点もポイントだろう。
例えば、銀行は「間接金融」と呼ばれる。ぼくらの預金は一旦、銀行という中間組織にプールされ、その中間組織によって運用される。
・・・こうした間接金融の場合、運用方針のすり合わせの問題が生じ、個々のお金の出し手の細やかな意思が一つひとつの投資運用に反映されるとは言いがたい。
その点、「直接金融」はシンプルだ。お金の出し手が直接にどこに投資するかを選び、その後のコミュニケーションの当事者にもなることで、互いが「大事にしたいこと」というような微妙なニュアンスの交換も可能になる。
・・・「大きなシステム」を補完する「小さなシステム」が成長することで、経済的/金銭的な価値にとどまらない価値を支え、育てていく一つのインフラとなっていくこともあり得るのではないだろうか・・・“


<自動販売機化する社会>

“・・・気が付けばぼくらのまわりは、人が(ほとんど)介在せずに商品・サービスが提供され、それを受け取る機会に満ち溢れていっている。そうすると、自分が手にしているこの商品・サービスが、さかのぼれば誰かの仕事の結果であるという事実も一層身体的には感知しにくくなっていく。
それは感謝の気持ちを失わせる。商品・サービスの向こうにあるはずの人の存在が想像できず、誰に感謝したらいいかすら分からなくなってしまうからだ
・・・自分の日々は、数多くの他者の仕事によって支えられている。
その状況はなんら変わっていないはずなのに、ぼくらの周囲から仕事の主の気配はどんどん消えていく。そしてあたかも自分は、自分一人の力によって日々を成り立たせているかのように錯覚する。
・・・どうしたら自分の仕事がお客さんに感謝してもらえるものになるか・・・
誰しもお店を始めるときには正面から考えていたであろうその問いも、時間が経つとつい惰性に流れてしまいがちだ。ともすると日々の売上、預金通帳の残高の方に心を奪われてしまうようになる。
「お客さんに感謝してもらう」— これは簡単なようで、案外そうでもない。それは逆を考えてみるとよく分かる。日々、自分がお金を使う機会を思い浮かべたとき、自分が何かの商品やサービスを利用して、お店に対し「ありがとう」と心から思うことがどれだけあるか・・・
そして最終的には「正攻法」にたどり着く。
それは美味しいコーヒーを淹れることであり、お客さんがいい時間を過ごせるよう尽くすことだ。お客さんにギブすること、お客さんを支援することなくして、「ありがとう」は得られない・・・

<ゆっくり、いそげ>

・・・多くのビジネスは利益や利回りを目的としている。となると当然それを最大化するために、初期投資はできるだけかけず、回収までの期間は短く、ランニングコストは抑えて―となっていくのが論理的な帰結だ。
別の言い方をすれば、自分/自社の利益を手に入れようとすること、つまりテイクすることがビジネスの動機になっている構図がこの数式(成果=利益÷投下資本×時間)にも表れているといえる。
それを逆転させてみてはどうか。
目的を、動機を、「ギブすること」にしてみる。
かけるべき時間をちゃんとかけ、かけるべき手間ひまをちゃんとかけ、いい仕事をすること。さらにはその仕事を丁寧に受け手に届け、コール&レスポンスで時間をかけて関係を育てること。つまり「贈る」ことを仕事の目的にする。
そして分子を「結果」と捉える。
自分たちが本当にいい仕事できていれば、受け手にとっての価値を実現できていれば、それは受け手の中に「健全な負債感」を生む。そしてそれに応えよう、応えなければいけないという気持ちが、直接・間接に贈り手に利益をもたらす。
・・・もちろん、と言って、時間やお金を野放図にかければいいということでもない。のんびりやればいいかというときっとそういうことでもない。実際それがいい仕事に結びつくとは、ちょっと考えにくい。

一生懸命、時間をかけるのだ。一生懸命、手間ひまをかけるのだ。
・・・本書でのここまでの議論は、世の中で大事なものはお金/金銭的な価値だけではないはずで、GDPの大きさではもはや社会の豊かさは測れない、というのが論旨だった。さらには、金銭的な価値の追求に収斂してしまった経済/ビジネスのありようが人間を手段化し、時間を手段化し、結果、生きづらさを生み、人間の可能性が発現する機会すら奪ってきてしまっているのではないかと考えてきた。
・・・そこで、やり方を変える。
お金のために働くこと、お金のための経済をやめる。お金以外の価値の大事さを見直す。一つ一つの仕事に、時間と手間をちゃんとかける。自分の目的のために目の前の人を利用するのではなく、支援するために力を尽くす。
こうした経済のありようは、お金以外の価値を含めた世の「価値の総和」を大きくする方向に寄与するのみならず、実は人の可能性を引き出し、仕事の内実を高め、結果として長い目で見たとき、世の金銭的価値そのものを大きくする方向にも働くのではないかと考えている・・・“


以上『ゆっくり、いそげ』からの引用でした。私も小さい農園の経営者として、日々理想と現実の間でもがいている。本の内容には「そのとおりだよなあ」というところと、「そううまくはいかないよな」というところとあったが、目指すところは重なるところが多かった。こういった同世代の人の取り組みを刺激に、自分も自分なりにもう少し頑張ってみよう、そんな気になった次第です。
posted by 五人坊主 at 05:22| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください