2018年05月25日

田舎のパン屋がみつけた「腐る経済」

『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』は、現在鳥取県智頭町でパン作り・ビール造り・飲食店を経営されている渡邊格氏が書いた本。韓国でベストセラーとなるなど、結構話題になった本のよう。以前新聞でとりあげられていて、文庫版を購入していた。
買ってから読むまでに少々間が空いた。購入後ざっと目を通した時の印象では、理屈の粗雑さが気になって、すぐに読む気にならなかったから。先日、ちょっと時間のできた折に、さっと読もうと読み始めると、当初の印象とは違ってきた。理屈が粗雑であるのは当初の印象通りであったが、著者のパン―天然菌に向き合う姿、その感性と行動力は、理屈の粗雑さを補って余りある強さをもって浮き上がってきた。
著者は単行本発行後(2013年)、文庫版ができるまでの間(2016年)に、天然菌を使ってのビール醸造を行い、そのビール製造過程でできる酵母をパン作りへと利用しているとのこと。また、地元の農産物を利用して飲食店事業を行うなどして、地元で雇用を生みつつ、地域づくりの中心的な役割を担っている姿がうかがえる。
このような事業の拡大に対する批判的意見や本に書かれている理屈の欠点への批判は結構あるのではないかと推察するが、本からうかがえる菌に対する感性は素晴らしいし、事業の拡大も「自然過程」のように感じた。

私も、よいもの(野菜)を作ってお客さんに喜んでもらいたい、という思いで野菜をつくっているが、どうも最近は結果としての野菜のほうに主に気をとられて、土つくりがおろそかになっていはしないか、という気がしていた。“ゆっくり、いそげ”の精神で、いま一度土つくりに立ち返って、“よい土を作る→健康でよい野菜を育てる”というベクトルで野菜つくりをしていかないと、という思いが強くなった。
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2018年05月14日

ゆっくり、いそげ

『ゆっくり、いそげ』は、東京の西国分寺駅近くで喫茶店“クルミドコーヒー”を経営する影山知明氏が書いた本。NHKラジオの朝の番組で影山氏がたまにお話をされているのを聞いて、彼の考えに興味を持って購入。

自らのコーヒー店経営における数々の取組から、理想的な経済・社会のありようを模索してきた筆者の考えや取組の軌跡が記されている。大手外資系企業や投資会社(ベンチャーキャピタル)で働いた経験があることから、経済・経営に関しての知見が広いことが感じられる。いまの経済の大きな流れのなかで大事なものが失われていっているのではないか、大きな流れとは違った経済・社会のありようがあってもよいのではないか・・・。考え方や取組自体が画期的というわけではないかもしれないが、コーヒー店の経営を通して理想を形にしていこうと模索・試行し続けている著者の思索と行為の積み重ねが、ある厚みをもって感じられる内容になっている。

いくつか興味のあるテーマを選んで、それぞれに内容を抜粋してみる。

<クルミドコーヒーでポイントカードをやらない理由>

“それはひと言で言うならば、お店に来てくださる方の「消費者的な人格」を刺激したくないと考えたからだ。それとは、「できるだけ少ないコストで、できるだけ多くのものを手に入れようとする」人格。つまりは「おトクな買い物」を求める人間の性向だ。・・・同じコーヒーとケーキを食べるならできるだけ安く食べたい。もしくは同じ額を支払うのであれば、できるだけ多くのものを手に入れたい。こういう心理はだれしもがもっている。そしてこのことは合わせ鏡のようにお店の姿勢にも影響を与える。・・・同じ1000円を受け取るのであれば、お店として支払うコストはできるだけ小さくしようとする。ケーキなんて一からお店で焼かなくてもいいし、コーヒー豆だって焙煎後1カ月くらいは使ったっていいんじゃないか・・・つまりお客さんとお店とが、それぞれに自己の利益を最大化させるべく行動選択する交換メカニズムが働く。
・・・こういうことを続けていくと短期的には利益が出たとしても、一つ一つの仕事に時間や手間はかけられなくなり、長い目で見ると「1000円」の中身はどんどん空っぽになっていってしまいかねない・・・”

“人はいい「贈り物」を受け取ったとき、「ああ、いいものを受け取っちゃったな。もらったもの以上のもので、なんとかお返ししたいな」と考える人格をも秘めている・・・これは、前に述べた「消費者的な人格」とは真逆の働きをする。自分が手に入れるものより、支払うものの方が大きくなるわけだからだ。これを「受贈者的な人格」と呼ぼう。
世に「消費者的な人」と「受贈者的な人」とがいるわけではないということだ。ことはそれほど単純ではなく、きっとあらゆる人の中に両方の人格が存在し、時と状況によってそれぞれが発現するのだ。
・・・だから問題になるのはお店がお客さんの中に眠るどちらの人格のスイッチを押すかということ。
・・・ポイントカードやポスティングをやるということは、ともすればお客さんの中の「消費者的な人格」スイッチを押すことになる。そして、そうしたお客さんの姿勢ははね返り、お店のありようをも変える。”

<駅前がチェーン店ばかりになる理由>

“資本主義の場合、個人は自身の経済的利得を最大化するべく振る舞うことが想定される。資本主義の場合のそれ(「期待される成果」や「目的」)は、個人の利益の最大化と、システム全体として生み出す経済的価値の最大化だ。そしてそのシステムへの参加者は、システムが期待する「成果」を生み出す方向へと行動を駆り立てられる。その方向付けのことを、ここではシステムの「力学」と呼んでいる。重要なのは、その過程では個々人の意思や主観は、副次的なところに追いやられるということだ。
・・・システムの力学が想定できるようになると、都心の駅前がどこもかしこもチェーン店で埋め尽くされていく状況もその理屈で理解ができる。
・・・例えば再開発などで出店可能な床(敷地)ができたとする。この物件の貸主が個人だとしたら、その個人の意思やこだわりで「こんなお店を」「こんな使い方を」と貫き通すことができるかもしれない。場合によっては採算度外視なんてことさえあるかも知れない。
・・・ただ多くの場合(再開発の場合などは特に)、貸主は組織化され、複数の人が関わる状況となっている。すると途端に話は難しくなる。「こんな開発をしよう」というゴールイメージの合意形成が難しいのだ。議論をしてもまとまらない。
となると、みなが納得する選択肢として「収益の最大化」がプロジェクトの落としどころとなる。
・・・そして重要なのはこの過程において、改めて、「個人として」そういう駅前にしたいと思っている関係者はほとんどいないということだ。
・・・生産や取引の効率を極限まで高めようと思えば、より大きなものへと統合し、「規模の経済」を働かせようとするのが論理的な帰結だ。
そうして「大きなシステム」が形成されるその過程で、「特定の人にとっては大事だけれど、普遍化しにくい」ような価値は取引の対象ではなくなり、その居場所をなくしていく。”

<「特定多数」の個人が直接にやり取りすること>

”多元的な価値を取り扱うシステムデザインのヒントが、ミュージックセキュリティーズでの取り組み(クラウドファンディングのさきがけのような取り組み、著者はこの法人の取締役でもある)に隠されている。ポイントは「特定多数」「個人」「直接」だ。
まず不特定多数ではなく特定多数の参加者を想定する。
そうすることで、金銭換算しにくいようなものも含めて「特定の人々にとって大事な価値」を取り扱えるようになる。
ミュージックセキュリティーズのファンド1つの平均的な参加者数は100~300人ほど。その特定の人々にとっては、「純米酒をつくる蔵が守られること」や「日本の森がきちんと手入れされ未来につなげられること」は金銭同等か、場合によってはそれ以上の価値を持つ・・・

また参加者が「個人」として参加していることも重要だろう。
「組織」としての参加となると、その組織内部の合意形成という問題がでてくる。そうすると「なぜその価値が大事なのか」という判断についての説明を求められるようになる。
そうなると「客観的に説明可能な」価値は支えられるかもしれないが、そうでないものは難しくなる・・・

そして、そうした価値のキャッチボールが「直接」に行われる点もポイントだろう。
例えば、銀行は「間接金融」と呼ばれる。ぼくらの預金は一旦、銀行という中間組織にプールされ、その中間組織によって運用される。
・・・こうした間接金融の場合、運用方針のすり合わせの問題が生じ、個々のお金の出し手の細やかな意思が一つひとつの投資運用に反映されるとは言いがたい。
その点、「直接金融」はシンプルだ。お金の出し手が直接にどこに投資するかを選び、その後のコミュニケーションの当事者にもなることで、互いが「大事にしたいこと」というような微妙なニュアンスの交換も可能になる。
・・・「大きなシステム」を補完する「小さなシステム」が成長することで、経済的/金銭的な価値にとどまらない価値を支え、育てていく一つのインフラとなっていくこともあり得るのではないだろうか・・・“


<自動販売機化する社会>

“・・・気が付けばぼくらのまわりは、人が(ほとんど)介在せずに商品・サービスが提供され、それを受け取る機会に満ち溢れていっている。そうすると、自分が手にしているこの商品・サービスが、さかのぼれば誰かの仕事の結果であるという事実も一層身体的には感知しにくくなっていく。
それは感謝の気持ちを失わせる。商品・サービスの向こうにあるはずの人の存在が想像できず、誰に感謝したらいいかすら分からなくなってしまうからだ
・・・自分の日々は、数多くの他者の仕事によって支えられている。
その状況はなんら変わっていないはずなのに、ぼくらの周囲から仕事の主の気配はどんどん消えていく。そしてあたかも自分は、自分一人の力によって日々を成り立たせているかのように錯覚する。
・・・どうしたら自分の仕事がお客さんに感謝してもらえるものになるか・・・
誰しもお店を始めるときには正面から考えていたであろうその問いも、時間が経つとつい惰性に流れてしまいがちだ。ともすると日々の売上、預金通帳の残高の方に心を奪われてしまうようになる。
「お客さんに感謝してもらう」— これは簡単なようで、案外そうでもない。それは逆を考えてみるとよく分かる。日々、自分がお金を使う機会を思い浮かべたとき、自分が何かの商品やサービスを利用して、お店に対し「ありがとう」と心から思うことがどれだけあるか・・・
そして最終的には「正攻法」にたどり着く。
それは美味しいコーヒーを淹れることであり、お客さんがいい時間を過ごせるよう尽くすことだ。お客さんにギブすること、お客さんを支援することなくして、「ありがとう」は得られない・・・

<ゆっくり、いそげ>

・・・多くのビジネスは利益や利回りを目的としている。となると当然それを最大化するために、初期投資はできるだけかけず、回収までの期間は短く、ランニングコストは抑えて―となっていくのが論理的な帰結だ。
別の言い方をすれば、自分/自社の利益を手に入れようとすること、つまりテイクすることがビジネスの動機になっている構図がこの数式(成果=利益÷投下資本×時間)にも表れているといえる。
それを逆転させてみてはどうか。
目的を、動機を、「ギブすること」にしてみる。
かけるべき時間をちゃんとかけ、かけるべき手間ひまをちゃんとかけ、いい仕事をすること。さらにはその仕事を丁寧に受け手に届け、コール&レスポンスで時間をかけて関係を育てること。つまり「贈る」ことを仕事の目的にする。
そして分子を「結果」と捉える。
自分たちが本当にいい仕事できていれば、受け手にとっての価値を実現できていれば、それは受け手の中に「健全な負債感」を生む。そしてそれに応えよう、応えなければいけないという気持ちが、直接・間接に贈り手に利益をもたらす。
・・・もちろん、と言って、時間やお金を野放図にかければいいということでもない。のんびりやればいいかというときっとそういうことでもない。実際それがいい仕事に結びつくとは、ちょっと考えにくい。

一生懸命、時間をかけるのだ。一生懸命、手間ひまをかけるのだ。
・・・本書でのここまでの議論は、世の中で大事なものはお金/金銭的な価値だけではないはずで、GDPの大きさではもはや社会の豊かさは測れない、というのが論旨だった。さらには、金銭的な価値の追求に収斂してしまった経済/ビジネスのありようが人間を手段化し、時間を手段化し、結果、生きづらさを生み、人間の可能性が発現する機会すら奪ってきてしまっているのではないかと考えてきた。
・・・そこで、やり方を変える。
お金のために働くこと、お金のための経済をやめる。お金以外の価値の大事さを見直す。一つ一つの仕事に、時間と手間をちゃんとかける。自分の目的のために目の前の人を利用するのではなく、支援するために力を尽くす。
こうした経済のありようは、お金以外の価値を含めた世の「価値の総和」を大きくする方向に寄与するのみならず、実は人の可能性を引き出し、仕事の内実を高め、結果として長い目で見たとき、世の金銭的価値そのものを大きくする方向にも働くのではないかと考えている・・・“


以上『ゆっくり、いそげ』からの引用でした。私も小さい農園の経営者として、日々理想と現実の間でもがいている。本の内容には「そのとおりだよなあ」というところと、「そううまくはいかないよな」というところとあったが、目指すところは重なるところが多かった。こういった同世代の人の取り組みを刺激に、自分も自分なりにもう少し頑張ってみよう、そんな気になった次第です。
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2017年10月08日

ノート 『吉本隆明未収録講演集 物語と人称のドラマ』 “『遠野物語』と『蒲団』の接点” からの抜粋 その他

以下(吉本隆明未収録講演集<8> 『物語と人称のドラマ』「『遠野物語』と『蒲団』の接点 1992年」より)
― ところで、それまで花袋の親友であり、仲間でもあった柳田國男などは、『蒲団』という作品を見て初めて花袋に対して違和感を感じ、それで花袋の『蒲団』をつまらない嫌な作品だ、というふうに言い出すわけです。
― 柳田國男がときになぜそう云ったかという理由を、花袋が死んでからですけれども、書いているわけですけれども、それは、じぶんは田山花袋にいろんな素材になりうるような話を語って聞かせた。ある時、じぶんがちょうど法制局の参事官をしていて、いろいろな裁判の記録とか、犯罪の記録とかを読みまして、そのなかで特赦・恩赦に該当するものを捜し出す、というような役をしていたときにぶつかった話があり、それを田山花袋に聞かせたことがあると云っています。

― それはどういうことかというと、ひとつは、西美濃の山の中に炭焼きがいて、子どもが二人、女の子と男の子がいて、その炭焼きが町へ出て炭を売りに行くんだけれど、なかなか売れなくて、憔悴して帰ってくるのを毎日のように見ていて、それを見かねて、ある時、まさかりのようなものを研いで、父親が帰ってきたとき、父親が気の毒なのでこのまさかりをやって、それでじぶんたちは小屋の敷居のところに首を、枕を並べてこう横たわって、それで父親に殺してくれと云って、それで父親のほうは、とうとう食糧もなくなってきていたので、ついふらふらとして、その子ども二人をまさかりで殺してしまうわけです。

― それで犯罪に問われるわけですけど、柳田國男はその裁判所の記録を読んで、こんなすごい人間の赤裸々なドラマはないと感動します。それで田山花袋にそれを語って聴かせた、そうしたら田山花袋いわく、それはあまりに深刻過ぎて小説にならない、というふうに云ったと柳田國男は書いています。

― 花袋たちの現実暴露とか、現実の凄まじさを描き出すんだと主張しているその自然主義の主張なんていうのは、たかが知れているものなんだ。じぶんがこういう深刻極まりなく、また、ある意味で感動せざるを得ないというような、何というか、人間のドラマというのを花袋に聞かせてあげたんだけれども、花袋のほうは全然それは駄目だ、それはあまりに深刻過ぎて、小説にはならないみたいなことを云った。つまり、花袋らの自然主義というのは、現実暴露とか、現実描写とか云っても、たかが知れていて、その程度のものなんだと柳田國男は書いています。

― 柳田國男の深刻な人間ドラマみたいなものから見れば、花袋の、例えば『蒲団』なんていうのは、本当にじぶんが結婚していて、細君もいて子どももいて、それで生活していて、そこに女弟子をとって同居させたら、いったいどういうことになるかぐらいのことは、やらない前から判っているはずなのに、そういうことをしてなるようになって、それでその女性のほうは文学を続けていく志よりも、恋人と一緒に同棲して、それで一緒に暮らすことのほうが重大になっていった。つまり、どう考えても女弟子のほうもつまらない挫折の仕方をするし、じぶんもまたもともとどうなるか判っていることをしでかして、それに嫉妬を感じて、その女弟子が残した蒲団をかぶって泣くなんてのは、まったくなっていない人間喜劇だと云っていいくらいなってないことなので、自然主義の現実暴露なんて、この程度の卑しい小さいものなんだというのが、柳田國男の観点です。

― ただ僕らが見ますと、柳田國男のこの観点は、なるほどその通りだといえばいえるのですけれど、別の面から云いますと、社会的な地位のある法制局参事官がそういう裁判記録を読んで、それで感動してこれは深刻なんだというふうに云っているので、深刻さ自体をじぶんが演じているわけでも何でもない。つまり、割合いに大所高所から深刻な事態を深刻な記録を見て、これは人間のドラマだといっていることだというように云えば云えるわけです。

― それに対して田山花袋は、何ていったらいいんでしょうか、目の高さと云いましょうか、目の高さというのはいつでも、普通の人、平凡な人、いわゆる普通人の目の高さというものを持っているわけです。それで目の高さに映っている人間の卑しさも善さも、全部含めて描き出すというのが、花袋が主張する、自然主義の主張であるわけです。

― つまり、じぶんが少しでも上のほうの目から眺めて、それでここに深刻な事態があると云っているのではなくて、じぶんも同じ普通人の目の高さで見て、それで、普通の人の持っている卑しさも善さも全部含めてそれを描く。社会通念に反してもそれを描き出すというのがじぶんの主張なので、その主張からみれば、柳田國男というのはいわば、自分自身は大所高所に立っていて、それで、深刻な事態の記録を見て、これは深刻なんだ、それで自然主義はそんなのは描かないだろうと云っているので、花袋のほうから見れば、そのほうがずっとたやすいことなので、それよりもやはりじぶんのように、同じ世間の人と、おあるいは平凡な人と同じ目の高さに降ってくる、人間の卑しさというのも善さというのも描き出して、売り出していくという、そういう考え方の方が一見、真実に見えなくても、はるかに深刻さというものを生かし、またじぶんが体験しているんだということが田山花袋の観点であるわけです。

―『遠野物語』の背後には、農政学者としての柳田國男の見識もありますし、それから、民俗学というものを、まったく新しく、西欧の民俗学と同じような意味合いで作っていこう、という柳田國男の背後の膨大な世界があるわけです。それは、文学者としての花袋にはとても見えないところでして、『遠野物語』を文学としてだけ読むと、やはり田山花袋のいうように、これは、粗雑を装った道楽みたいなもんなんだというようにしか見えないところがあったと思います

― 柳田國男の方から見ると、花袋は卑しい人の卑しいことをこう、ずけずけと書いている。何があれがいいんだ、何があれが文学なんだ、というのが柳田國男の批判になると思います。

― けれども、柳田國男のその批判にも、やはりひとつの欠落があると思います。その欠落は何かというと、花袋があくまでもごく普通の人を同じ目で、普通の人のその目に映る卑しさも善さも、それから心の事実も、現実的なことにしても、全部見事に描きつくそう、社会通念がどうあろうと描きつくそうということの意味を、柳田國男はとても受け入れられなかったということだと思います。つまり、そこが両者の分かれ目ですし、また、日本の文学、近代というもの全体の、一種のもの悲しさだといえると思います。

― 日本近代の悲劇は、さまざまありますけれども、いちばん大きなことは、要するに伝統ということと、伝統的な因習でもいいんですけれども、もっと遡ると有史以前の、地名とか、人の名前とか、鳥の名前とかというのが最初に付けられたところまでいくと、歴史以前になるわけですけれども、そういう日本の伝統的な過去というものと、それから未来を目指すものとの間には、片方は反動で保守的で、もう一方は進歩的で西欧模倣的でといわれて、日本の近代というのは、いちばん激しく分裂してきたわけです。お前は保守的で反動的で、伝統主義者、あるいは民族主義者だというふうに片方がいうかと思うと、もう片方は、お前は伝統のよさも何も、ぜんぜん忘れてしまって西欧の真似ばかりしているだけじゃないか、というふうに云っているというような分裂の仕方は、単に文学だけじゃなくて、あらゆる面での、日本の近代の悲劇の最たるものなわけです。つまり、悲劇のいちばん大きなものは、そういうところにあるわけです。そういうところになってしまう、別れ方の最初の道というのは、田山花袋と柳田國男が非常によく象徴しているわけです。

― どちらが正しいか、というような言い方を仮にして見れば、今申しあげたとおり、欠落というものがどちらにもあるということになります。そうすると、この分裂というものを、そうじゃないんだと、つまり過去に遡ることと、未来を目指すことは、云ってみれば同じ事なんだというぐあいに、この分裂はしなくていいものなんだというような課題は、依然として今もあるわけです。今も僕らはそれを課題にしているということができます。(以上 『遠野物語』と『蒲団』の接点 より)

最近の国政政治の喜劇=悲劇を思うに、この柳田國男―田山花袋に象徴される近代の悲劇はいまも変わらずといった感じのよう。ただ、最近では、“革新的保守”系の人たちは、自由主義経済を推し進めることで元来彼らが絶対視しているはずのナショナルなものの存立を細らせ相対化していこうとしているといえるし、“保守的革新”系の人たちは、「日本の農業を守る」という主張に象徴されるように元来彼らが相対化しようとしているナショナルなものを無自覚に保守しようとしているというおかしなことになっている気がする。

政治に関する世論調査を見聞きしていると、回答率はだいたい60%程度。支持率が一番高い自民党で30%。60%×30%で実質18%程度。支持する政党はない、という人がだいたい40%。無回答の多くは特定の政党を支持していない可能性が高いとすれば、実際60%以上のひとが特定の政党を支持していないということがいえると思う。
国政選挙の投票率は、その時々で変動するとはいえ、大きくいえば下降してきているといえる。今回は30%~40%台になるんじゃないかと思う。仮に自民党が得票率で50%としても、実際の支持率は40%×50%で20%。公明党と合わせても30%を超えることはないと予想できる。

今の国政政治、政党政治、議会制民主主義は成り立っていないといえば言えてしまいそうな気がする。多くの識者はこういう事態を憂えると思う。ただ、専制政治もポピュリズムもごめんこうむりたいといえ、さりとてどうなればよいのかというのはまだはっきりしてこないように思う。投票率が30%を割るようなことになってくれば、事実上議会制民主主義は破城状態だといえると思うのだが、それが歴史的な前進なのか後退なのかよくわからない―

今回の選挙の争点のひとつは憲法の改正にある。私は9条に関しては護憲がいいと思っている。理想を現実の方へ降ろすようなことをしないほうがよいと思う。他の条項に関しては正直良く知らない。実際に改憲を望む人たちが多くいることは確かだと思う。大いに議論したらいいと思うのだが、護憲派のいわゆるリベラルな政党の人たちは、議論すること事態を悪いことのように言っているような感じがする。共産主義を標榜する国々がことごとく専制政治、官僚主義に堕していったことに対する内省がなければ、今後もこういった政党が支持を伸ばすことは難しいと思う。国会における負け癖かどうかわからないが、議論することさえならんというのではなく、そこはもうちょっと民主的に考えた方が良いはずだと思う。他の法律とは違って、憲法に関しては改憲・護憲の判断は最終的には国民の直接投票によるはずなので、正々堂々議論して護憲の主張を訴えて国民の支持を得るべきなのではないのか―

いわゆる政治に関して、私はいろいろ考えたことがある。いわゆる政治的なことに関して、過去はさておき、これからは直接政治にかかわるよりも民間で頑張ったほうが有効なことを達成できる可能性が大きいのではないか、というのが自分なりの結論だった。この人は何事かを成した、といえるような政治家が最近ではすぐに思い当たらない、ということもあるかもしれない。たとえば国際平和に関して、後世にも引き継げるより意義あることを成し遂げたいのであれば、政治家になるよりもNPO法人でもなんでもよいのでお金と人に責任をもって国際交流を実際にしていくような活動を地道する方がいい、農政を変えたいのであれば、官僚や政治家が参考にするくらいの理想の農園を作り上げればよい、というような感じ。そういった考えは今も変わっていないように思う。政治家や官僚が参考にしてくれるかどうかは別にして、自分は一農家・一農園経営者として、自らが理想と思う農園を形にするべく頑張っていくのがいいんじゃないかと思っている。
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