2017年05月09日

空が青いから白をえらんだのです

NHKラジオ深夜便の4時代はインタビュー形式で、各分野の様々な方々が登場して1時間弱話をする。
朝のストレッチをしながらぼんやりと聞くことが多いが、興味のある話のときは最後まで聞き入ってしまうこともある。
寮美千子さんは詩や小説を書かれているようであるが、ラジオで知るまでは知らなかった。先日(再放送で)話をされていた寮さんは奈良少年刑務所で"社会性涵養プログラム"の講師をしており、その時のことについて話されていた。
"社会性涵養プログラム"とはなにか、というと、挨拶の仕方やコミュニケーションの取り方を実地を交えて学ぶソーシャルスキルトレーニング、"言葉からも日常からも解放されて無心に絵を描"く美術、童話・詩をもちいた"言葉を中心とした情操教育"の3つからなっている。寮さんはそのなかの「童話と詩」の授業をうけもっていたそうだ。
刑務所や少年院で行われる、いわゆる"更生のための教育"について私は何も知らない。ただ、簡単ではないことは容易に想像がつくし、そもそも"人は変わる(更生する)ことができるのか"ということ自体が賛成・反対の意見が分かれるところであると思う。(学校で行われる"道徳教育"には子供のころから違和感を感じていた。"道徳"を教えれば人が道徳的になるというのはあまりに人間に対する認識が足りないような気がするのだが・・・)

"「社会性涵養プログラム」と名付けられたプロジェクトの対象は、刑務所のなかでも、みんなと歩調を合わせるのが難しく、ともすればいじめの対象にもなりかねない人々。極端に内気で自己表現が苦手だったり、動作がゆっくりだったり、虐待された記憶があって、心を閉ざしがちな人々だ。
「家庭では育児放棄され、まわりにお手本になる大人もなく、学校では落ちこぼれの問題児で先生からもまともに相手にしてもらえず、かといって福祉の網の目にはかからなかった。そんな、いちばん光の当たりにくいところにいた子が多いんです。ですから、情緒が耕されていない。荒れ地のままです。自分自身でも、自分の感情がわからなかったりする。でも、感情がないわけではない。感情は抑圧され、溜まりに溜まり、ある日何かのきっかけで爆発する。そんなことで、結果的に不幸な犯罪者となってしまったというケースもいくつもあります。先生には、童話や詩を通じて、あの子たちの情緒を耕していただきたい」(『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』のあとがき「詩の力、場の力」より"

寮さんが依頼を受けたときに当時の教育統括の方から言われたことの中に、"犯罪"が起こる普遍的な要因の一つが語られているように思う。"受刑者たちは、加害者であると同時に、この社会の被害者なのかもしれない"-

"はじめて教室に集まったときは、なぜか、そこにいる一人一人の人間の形が、はっきりと見えてこない。どっしりと土の塊が座っているような無表情な者がいる。手を差し出せば、警戒してさっと逃げてしまう野良猫の子のような態度の者もいる。なんでこんなところにいるんだと言わんばかりの不機嫌な様子の者がいる。姿形はさまざまで、その態度もさまざまなのに、彼ら一人一人の印象がはっきりしない。おそらくは、交流感がないからだ。だから、その生命の力を感じない。彼らは、見えない壁の向こうにいる。"

"授業は全6回。最初の会では絵本『おおかみのこがはしってきて』を教材にする。この絵本は、アイヌ民話を題材にしたもので、父と幼い息子の対話という形で話が進んでいく。子供の質問に、父親が答えていくなかで、自然の大きな仕組みに気づいていくという物語だ。
絵本の概要を話した後、それぞれに朗読してもらう。それも、アイヌ風の上着や、アイヌの刺繡のハチマキなどを用意して、父と子の姿に扮し、みんなの前でお芝居のように演じてもらうのだ。
教官が、フェルトで父親役のヒゲを作ってきてくださったことが、功を奏した。役になることは、一種の仮面をつけること。その仮面のおかげで、普段は人前で発言するのも苦手な子も、なんとか人前で演じ切ることができるのである。
いかつい体の大きなレスラーのような子が「子ども役をしたい」と言ったときには、驚いた。彼は実にかわいらしい子どもを演じてみせてくれた。
「彼は、子どもらしさを出してこられなかったんです。家庭の事情で、小さいときから、大人のふりをして生きてこなければならなかった。だから、自分のなかの子どもを開放したかったんでしょう」と教官。演じたあとの彼は、いい顔をしていた。"

"足を広げてふんぞり返って座っていたOくんは、俳句をほめられたことをきっかけに、腰かける姿勢まで変わってしまった。授業に興味を持って、身を乗り出すようになった。
自傷傾向があり、情緒の安定を欠くKくんは、妄想や空想をノートに書きつけ、心から取り出して客観化するようになった。すると、心が落ち着き、醸し出す雰囲気さえ変わってきた。いまでは、仲間から人生相談を受け、答えてあげる立場にまでなっている。
人間、たった6か月、18回の授業を受けただけで、そんなに変われるなんて、と、わたしは我が目を疑った。ビギナーズ・ラックで、たまたまうまくいったのだと最初は思っていた。
ところが、そうではなかった。今回、5期目が終了したが、効果が上がらなかったクラスは一つとしてない。ほとんどの受講生が、明るい、いい表情になってきて、工場の人間関係もスムーズになる。
そんな受刑者の変化を感じた工場担当の刑務官の先生方が、彼らを適切なポジションに配置してくださる。すると、工場全体に、更生に向けて前向きの明るい雰囲気が漂うようになるという。一人の変化が、全体に影響する。悪循環の反対の、良循環の始まりである。
 
彼らの大きな変貌ぶりを思うと、わたしはなんだか泣けてきてしまうのだ。細水統括のおっしゃるとおりだった。彼らは、一度も耕されたことのない荒れ地だった。ほんのちょっと鍬を入れ、水をやるだけで、こんなにも伸びるのだ。たくさんのつぼみをつけ、ときに花を咲かせ、実までならせることもある。他者を思いやる心まで育つのだ。彼らの伸びしろは驚異的だ。出発点が、限りなくゼロに近かったり、時にはマイナスだったりするから、目に見える伸びの大きさには、目をみはらされる。
こんな可能性があったのに、いままで世間は、彼らをどう扱ってきたのだろう。このような教育を、もしずっと前に受けることができていたら、彼らだって、ここに来ないですんだのかもしれない。被害者も出さずに、すんだのかもしれない。「弱者」を加害者にも被害者にもする社会というものの歪みを、無念に思わずにはいられない。

わたしは改めて「社会性涵養プログラム」の効果の大きさに驚き、何が効果を上げたのか、それを自ら問い直してみることになった。
たったひとつの要因で、奇跡のようなことが起きるわけがない。複数の要因が互いにいい影響を与え、結果として目に見える効果をあげているに違いない。
第一に、刑務所の教官の方々の熱心さが挙げられるだろう。月に三回の「社会性涵養プログラム」のときだけでなく、工場で、日常生活で、彼らをよく観察しさりげなく声をかけ、励まし、信頼関係を築いている。さらには、彼らの犯罪歴だけでなく、その生育歴まで把握し、常にその背景を考慮しながら対処していらっしゃる。だからこそ、受講生は、教室で安心して心を開くことができるのだ。

また、このプログラムが、異なる三つの要素から成り立っていることも、おおきな要因だろう。-気持ちのよい挨拶の仕方を学び、それを刑務所生活で生かす。気持ちを伝える方法を学び、喧嘩をうまく回避する。そんなことの積み重ねが、彼らの日常をより「生きやすく」してくれる。
そんな日々のなかで、無心になって絵を描く時間があり、宿題の詩を一人で書いて自分と向きあう時間があり、それを合評する時間がある。そのすべてが、各方面から、じわじわと氷を融かすように、徐々に心のこわばりを取り、彼らのなかに押し込まれていたものを、安心して表現できるようになるのではないか。
そして、何より「グループワーク」という「場の力」だ。一対一の対応とはまた別種の、独特に密度の高い時間が出現する。十名ほどの受講生と、講師、複数の教官とが一つの大きな「座」を作っている。そのなかで、さまざまな意見が交わされ、互いの意見に耳を傾けあう時間がある。自分が発表しているときは、残りの全員が、自分に耳を傾けてくれる。朗読を終えたときも、みんなが拍手をしてくれる。十数名からの拍手を得られるということの大きさ、誇らしさ。もしかしたらそれは、彼らにとって、生まれて初めての体験かもしれない。
この有機的な交流が、その場をよき温床として、彼らの芽をぐんぐん伸ばしていく。その速度たるや、驚くばかりだ。
わたしは、彼らと合評していて、驚くことがあった。誰ひとりとして、否定的なことを言わないのだ。なんとかして、相手のいいところを見つけよう、自分が共感できるところを見つけようとして発言する。大学で授業をしても、批評と称して相手の人格さえ否定するような罵詈雑言を吐く学生がいるのに、ここではなぜかそんなことはない。
― 先生方は、普段から、彼らのありのままの姿を認め、それを受けいれているというメッセージを発信し続けていらっしゃる。そのメッセージを受けとった者は、同じように仲間のありのままを受け入れようとする。すると、受刑者のなかに、互いに受け入れ、高めあおうという前向きの雰囲気が、自然と醸されてくるのだ。

もうひとつ、心底感じたのが「芸術の力」だ。とくに「詩」に関しては、わたし自身、詩に対する考え方が変わるほどの大きな衝撃を受けた。
「物語の教室」で、童話を読み、詩人の書いたすぐれた詩を読む。それだけでも、もちろん彼らの様子は違ってくるのだが、目に見えて何かが大きく動くのは、彼ら自身に「詩」を書いてもらい、それを合評する段階に入ってからだ。
たとえ、それが世間でいう「詩」に似ていなくても、それは確かに「詩」だ。日常の言葉とは違う言葉だ。ふだんは語る機会のないことや、めったに見せない心のうちを言葉にし、文字として綴り、それを声に出して、みんなの前で朗読する。
その一連の過程は、どこか神聖なものだ。そして、仲間が朗読する詩を聞くとき、受講生たちは、みな耳を澄まし、心を澄ます。ふだんのおしゃべりとは違う次元の心持ちで、その詩に相対するのだ。
すると、たった数行の言葉は、ある時は百万語を費やすよりも強い言葉として、相手の胸に届いていく。届いたという実感を、彼らは合評のなかで感じとっていく。
その「詩の言葉」が、人と人を深い次元で結び、互いに響きあい、影響しあう。

わたし自身、詩を書くものであるのに、詩の言葉をどこかで信用していなかった。詩人という人々のもてあそぶ高級な玩具ではないか、と思っている節さえあった。
けれど、この教室をやってみて、わたしは「詩の力」を思い知らされた。それまで、詩など、なんの関係もなかった彼らのなかから出てくる言葉。その言葉が、どのように人と人をつなぎ、人を変え、心を育てていくのかを目の当たりにした。それは、日常の言語とは明らかに違う。出来不出来など、関係ない。うまいへたもない。「詩」のつもりで書いた言葉がそこに存在し、それをみんなで共有する「場」を持つだけで、深い交流が生まれるのだ。
大切なのは、そこだと思う。人の言葉の表面ではなく、その芯にある心に、じっと耳を傾けること。詩が、ほんとうの力を発揮できるのは、実は本のなかではなく、そのような「場」にことあるのではないか、とさえ感じた。"

先に挙げた本から長々と引用した。断片的な引用で済まそうと思いつつ、どの言葉も大切なような気がしてきて長くなってしまった。ただ、こういった言葉を読んでわかったような気になっただけでは本当はなんの意味もないのかもしれないと思いつつ―
世の中、当たり障りのない言葉や否定的な言葉で満ち溢れていて(典型的なのは皮肉にも"えらい先生方"の国会でのやりとりだったりするのだが)、それだけで気が滅入ってくることもある。
ラジオから聞こえてきた寮さんの語りに、心底救われた思いだった。

" 
くも
空が青いから白をえらんだのです

Aくんは、普段はあまりものを言わないこでした。
そんなAくんが、この詩を朗読したとたん、堰を切ったように語りだしたのです。
「今年でおかあさんの七回忌です。おかあさんは」病院で
『つらいことがあったら、空を見て。そこにわたしがいるから』
とぼくにいってくれました。それが、最後の言葉でした。
おとうさんは、体の弱いおかあさんをいつも殴っていた。
ぼく、小さかったから、なにもできなくて・・・」
Aくんがそう言うと、教室の仲間たちが手を挙げ、次々に語りだしました。
「この詩を書いたことが、Aくんの親孝行だと思いました」
「Aくんのおかあさんは、まっ白でふわふわなんだと思いました」
「ぼくは、おかあさんを知らないので、この詩を読んで、
空を見たら、ぼくもおかあさんに会えるような気がしました」
と言った子は、そのままおいおいと泣きだしました。
自分の詩が、みんなに届き、心を揺さぶったことを感じたAくん。
いつにない、はればれとした表情をしていました。

たった一行にこめられた思いの深さ。そこからつながる心の輪。
目を見開かれる思いがしました。"
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2017年02月17日

土と内臓

『土と内臓』(D・モントゴメリー+A・ビクレー著)はタイトルが秀逸だと思う。原題は“The Hidden Half of Nature:The Microbial Roots of Life and Health”なので、邦題は訳者(出版社)が結構大胆に書き換えたといえるが、これがはまっているように思う。原題をそのまま訳していれば、あるいは手にとることもなかったかもしれない。
この本は専門書ではなく、微生物と人との関係を網羅的に広く適度に深く紹介し、最新の知見からこれからの微生物と人とのかかわりを、特に農業(土と植物)と医療(食と身体)の分野から展望しようとしており、微生物に関して素人からある程度知見のある人までどんな人でも読めるような類の本になっている。
顕微鏡の発明に伴う微生物の発見から、微生物に対する人の認識・扱い方の歴史的変遷もまとめられているが、発見以来数十年前までは、どちらかというと人にとっても植物にとっても病気の素という見方が優勢で、長らく退治・排除するべき対象という存在であった(かなり以前から微生物の重要性・有用性を訴えるマイノリティーはいたとして)。その結果として抗生物質や農薬が数多くつくられ、大きな成果を上げてきた一方で、抗生物質の耐性菌の問題や薬剤耐性を持った病害虫の増加なども問題となってきている。近年の土壌微生物や腸内細菌の研究の発展から、微生物の働きが植物(生態系)や人にとって欠くことのできない役割を果たしていることが明らかになってきており、これまでの厄介な“ばい菌”的認識は改められていくであろうし、新たな知見に基づく農業や医療分野への応用が今後ますます活発になっていくことが予感される内容になっている。
土壌(農業、植物生理)、医療のそれぞれの分野ごとに、微生物の観点から書かれた専門書は多々あると思う。一方で、最近明らかになってきている科学的知見を踏まえて双方を網羅的に把握しようという本はあまりないと思う。興味深い最近の知見が多々書かれていてとても要約しきれないが、私がとりわけこの本が独特であり良書であると思うポイントは以下のようなものだ。

1.植物の根圏と人の腸内との相似性が明らかにされている
2.庭いじりと家庭菜園にかかわった実体験から土壌に対する興味をもち、それに基づいて知見を広げていった過程と、自らガンにかかった経験から食べ物-腸内の生態系に興味を持ち知見を広げていった過程がそれぞれ書かれていることで、各分野の専門的知見がリアルな“人存在”から遊離していない(客観的な事実や知見の記述だけでなく、かといって主観的・恣意的な記述になってしまっていない)
3.微生物に対する人のとらえ方の歴史を俯瞰することで、微生物・人・植物・生態系にたいする高次元・立体的なとらえ方ができるようになっている(それぞれの細部・専門性は薄くなったとしても)
4.文学性がある(比喩が多過ぎてかえってわかりずらくしているところもあるが)

とりわけ1.に関しては、植物の根圏と人間の腸内の間の興味深い相似性が何点か明らかにされている。
①栄養摂取に関する微生物の働き
②免疫・防御に関する微生物の働き
③相互依存・共生のしかた
④微生物の種類の相似性
⑤根と腸の形態的相似性
などをあげることができる。

①に関して。自然の植物は、必要とする養分の多くを土から直接吸収できるわけではない。分子が大きすぎたり、他の分子とくっついているがために吸収できなかったり、水に溶けない状態で存在していたりするからだが、微生物は大きな分子を細かくしたり不溶性の物質を可溶性にしたりすることで、植物は栄養を吸収することができる。同様に人が食べたものも、人が分泌する胃酸や消化酵素だけで吸収されるまでに細かくなるものとそうでないものがあり、大腸に多く住む微生物によってはじめて分解吸収される栄養素のなかには人の健康においてきわめて重要なものが多くある。
②に関して。植物の病害虫に対する防御反応や人の疾病にたいする免疫反応に微生物が深くかかわっており、それぞれ微生物なしでは人も植物も病害虫に対して極めて脆弱な存在である。とりわけ人の免疫反応において、過剰な防御反応が引き起こす自己免疫疾患や慢性疾患(糖尿病など)などは、腸内環境、微生物のバランスを改善することで症状が大幅に良くなることが明らかになってきている。
③人も植物も、自らにとって有用な微生物を囲っておくために、微生物のエサとなる物質を根や腸から滲出させ、住みかとなる場所を提供する。そして、根においても腸においても表面の細胞では微生物は半ば植物や人の体内に入り込み、半ば外に出ておりという感じで存在している。そのように存在しながら養分を供給したり免疫系にかかわったりしているものがある。
免疫学者の多田富雄さんの著書で、人の免疫系から見た“自己”とはなにか、という科学的―哲学的な内容の本があったが、このような植物や人の体表・境界に存在している微生物は自己―非自己の境界にいるような存在だといえる(少なくとも免疫系はある種の常在菌を自己として認識していることになる)。
④根圏にいる微生物も腸内にいる微生物も、いずれも腐生菌(死んだ植物を栄養源にする菌)の系統に属するものが多い。いずれも高分子の複合糖質を栄養源として、植物においては有用な有機酸やアミノ酸をつくり、人においては有用な乳酸や単鎖脂肪酸をつくり、植物や人の成長・健康に役立っている。
⑤"植物の根を、根圏も何もかも一緒に裏返したとすれば、それが消化管に似ていることに気づくだろう。"
まったく同様のことを解剖学者の三木茂夫が本で書いていたと思う。発生学的にみると、動物の受精卵は細胞分裂を繰り返す中で胚表面が内側に陥入して反対側に突き出る。この陥入の入り口側が口となり、出口側が肛門となるのだが、この内側に入り込んだ内臓部分は植物の根に相当することを指摘していたように思う。また三木茂夫は、交感神経系-体壁系が頭(理性など)と深く結びついているのに対して、人の心はこの自律神経系-内臓部分と深く結びついていることを指摘していたが、この本の最後のほうに次のようなことが書かれていた。
"(大腸に住む微生物のあるものが)人間の感情をつかさどる神経伝達物質セロトニンを作れるなどと、誰が考えただろう。私たちの腸内細菌が、神経系と情報伝達をしているというだけでなく、人間の感情の状態は腸内細菌に ―そしてそれが作り出す代謝産物のスペクトルに― 影響されうるのだ"

最後に、うまくまとめるのが大変なので引用で済まします。
"農業害虫の復活、土壌肥沃度の低下、危機的レベルの抗生物質耐性菌の出現、寿命を縮める慢性疾患、これらはすべて無関係に見えるが、根の部分は微生物生態系の攪乱でつながっている -
生態学者のあいだで有名な偶像的人物、アルド・レオポルトは、オオカミを撲滅することが名案だと考えられたとき、(アメリカ)南西部の植生に何が起きたかを見ていた。シカの個体数が爆発的に増えて森を食べつくした。土地は丸裸になり、シカの餌が足りなくなった。牧場主や野生生物担当の政府職員は、肉食獣を撃てば土壌が侵食され、シカが餓死するなどとは考えてもみなかった。
こうしたことは微生物の扱いにとって何を意味するだろうか。見方を育てながら、人間、作物、家畜を害虫や病原菌から守る、新しい方法を見つけ出さなければならないということだ。私たちは、生態学者の精神、園芸家の気配り、医師の技術をあわせ持つ必要がある。自然の隠れた半分と協力することで、一見無関係な幅広い環境問題と健康問題に対処できる意外な―そして意外にも効果的な―方法への道が見えてくるからだ"
posted by 五人坊主 at 17:45| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2016年11月10日

家族のゆくえ

私はいま保育園の保護者会の役員をやっている。先日、保護者と保育園と行政(村長、保健福祉課課長、担当係)との懇談会があった。懇談会の趣旨は、保護者サイドから保育園事業にかかわる要望や問題を行政に伝え返答を得ること、保育園事業に対しての行政として方向性や考えをうかがうこと、など。保護者であればだれでも参加できるのだが、役員の保護者が数名参加するのみだった、私も役員でなければ参加しなかっただろう。 その中で、保育園の通常の保育(平日9時から4時まで)以外に行われる"延長保育"が話題になった。現在行われている延長保育は、朝と夕方の1~2時間、土曜日の半日。年々要望が増えてきて、平日の夕方延長保育を利用している子供は、全体の4割近くに上り、年々増加してきているとのこと。行政の担当者の話では、近隣の市では365日保育(利用者は曜日に関係なく1週間のうちの5日子供を保育園に預けられるというやり方)が行われていたり、0歳児保育(実際に生後2か月の乳児が預けられていたそうな)が行われていたりしているという。このままではコンビニ状態(24時間365日保育)になるのではないかと役場担当者は冗談とも本気とも取れない感じで言っていた。また、行政では「子育て支援」として保育料の補助を行ったり格安での延長保育を行っているのであるが、これでは親の「就労支援」をしているようなもので「子育て支援」になっていないとこぼしていた。さらに、保育園の実状としては、延長保育を行いたくても保育士がいない。保育士の有資格者は大勢いるかもしれないが、ほとんどの人が民間企業へ行ってしまって現在の保育士の待遇では人が集まらないという。
一方で、今日のニュースでは老人介護の人手不足から、外国人介護士の就労を認める法的措置が認められたとが伝えられていた。

『家族のゆくえ』(吉本隆明)のなかで、冒頭「家庭の幸福は諸悪のもと」という太宰の言葉が引用されている。この太宰特有の逆説・アイロニー的言葉(思想)が、いまや逆説・アイロニーとして一まわりまわった意味合いではなくストレートに世情を表現していると思えてくる。子供を保育園・幼稚園に預けざるを得ない事情、介護が必要な親を預けなければならない事情は当然それぞれあるはずであり、多くのひとは「やむなく」やっていることだということはよくわかる気がする。自身もそういったことを批判できる立場にはない。しかし、保育園のコンビニ化、老人介護をするのは外国人ばかり、といった状況を思うと「世界の終わりは近い」(宮崎駿)という気がしてきてしまう。

"わたしは、子育てのかんどころは2か所しかないとおもっている。そのうちの一か所が胎内7~8か月あたりから満一歳半ぐらいまでの「乳幼児期」、もう一か所は「少年少女期」から「前思春期」にかけての時期だ。この二か所で、母親あるいは母親代理が真剣な育て方をすれば、まず家庭内暴力、けた外れの少年殺傷事件のような深刻な事態には立ち至ることはないとおもえる。もちろん、悪ガキというか悪童ぐらいにはなるかもしれないが、しかし、いきなり他人を刺してしまったり、あるいは親を殺したりということまでには至らないはずだ。
ところが、これほど重要なふたつの時期のうちのひとつ、つまり胎内7~8か月から満一歳半ぐらいまでの乳児の世話をする母親が、気が進まないまま子供を産んだ結果、「赤ちゃんの世話をするなんて面倒だ」とか「一年の空白ができてしまうじゃないの」という思いにとらわれるとすれば、その影響は深刻だと言わざるをえない。この時期の子供には母親の愛情をたっぷり注がなければいけないのに、肝心の母親が「面倒だ」とか「厄介だ」という思いで赤ちゃんに接したとすれば、それこそ、もうあとになっては取り返しのつかないような悪影響がでてしまう"
この考え方については『母型論』(吉本隆明)の中で詳しく論じられてる。これは「心」の問題、「精神」の問題について吉本氏が考え抜いたうえでの一つの結論だといえる。

現状からすれば、家庭外保育の低年齢化、長時間化のながれは容易に変わることはないと思う。ただ、どこかでどん詰まりがくることは確かなような気がする。「女性が活躍する社会を」というのは、それはそれで大切なことだと思う一方で、"子育ての勘どころ"におけるケアを最重要課題にすえた家庭のあり様、働き方、行政の施策を真剣に考えていかなければならないように思う次第。
posted by 五人坊主 at 21:55| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする