2015年11月14日

Stay punk

NHKFMラジヲ 夕方6時代に最近やっている番組「夜のプレイリスト」。週替わりで、各界の一線で活躍している人がMCを務め、その人にとって思い入れのあるアルバムをそのまま1枚分かけてしまうという番組。民放だと1曲まるまるかかることさえめったにないのに、アルバム1枚分全曲をかけてしまうというところがNHKならではといえる。これは視聴者側からすると、アタリとハズレが極端にでてしまうという恐れがあり、通俗中道路線でいかざるを得ないメジャー民放的意思からするとなかなかファンキーだ。6時代にFMを聞くことはあまりなかったのだが、最近鶏のタマゴの汚れをきれいにする仕事をこの時間帯にしなければならないことがおおく、なんとなく耳さみしくFMを聞いていたらこの番組に行き当たった。ラジオをつけたら殿下(プリンス)の曲がたまたま流れてきたので、おや、とおもって聞いていたら、続けてまたプリンスの曲、そしてまた次も、という感じで、どうやらアルバム「パープルレイン」をそっくりかけているらしい。この前代未聞な無茶をやっている番組に興味をもって、それから何度か、いつも断片的とはいえこの番組を聞く機会があった。今週のMCは、ハービー山口。写真家らしいが正直よく知らない。取り上げられるアルバムも私にとっては微妙な選択であったが、なんとなく聞いていた。ハービー氏の担当最終日の金曜日はザ・クラッシュという70年代パンクロック勃興期に活躍したらしいバンドのロンドンなんとかというアルバム。駆け出しの若手写真家(未満)だった氏は、いきさつはよく知らないが70年代にイギリスへわたって、あれこれ食いつなぎながら写真をとっていたらしい。彼はパンクロックにも興味があり、当時の前衛的ロックバンドのライブ会場へも足を運んだようだ。そんなある日、ライブで知っていたザ・クラッシュのバンドのメンバーを、自分が乗った電車で偶然見かけた。写真を撮りたい、という衝動が起こり、恐る恐る彼に声をかけ、写真を撮らせてもらった。電車から降りてそのバンドメンバーが去り際に、彼の方を向いて「撮りたいものは全部撮れ。それがパンクってことだ」と声をかけたという。駆け出しの表現者(写真家)にとって、この言葉は相当効いたに違いない。こういう出会いというのは、偶然ともいえるし、出会うべくして出会ったともいえる。自分にも、20代のころにこういう強い言葉をかけてもらったことがいくつか思い出され、ラジヲを聞きながら自分もBe punkと思った次第。
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2015年10月09日

重層的な非決定へ

〝皆さんは誰でも、文化的な仕事や社会的な仕事の上で、もしいったん絶えず新しさをこわし、そしてまた新しさを生むという世界に自分を置いてしまえば、「現在」ではもうそれを逃れることはできなくて、自分もまたその新しさの競り合いをどんどん人とやってゆくし、新しさを絶えず生みだし次々に古くなり、また新しさを生み出しというような形になってしまう層に、どこかで出会っているのではないでしょうか。 - た例えばいちばんよくあらわれているのは広告とか、カタログとか、そういうものの世界です。それは間違いなくすぐに新しさを生み出すと、また誰かが、或いは自分自身がそれを否定するような新しさを生み出すっていうような、競り合いの帯の中に置かれてしまうわけです。そしてその競り合いの帯の中は、ある意味でいちばん「現在」の特徴を、良くあらわしている部分が含まれます。 - その世界に自分が入る入らないってことはもう別ですが、その世界を考えることなしに「現在」の特徴を考えることはできない不可欠な部分としてそういう層が生み出されてしまっていることは確かです〟

〝ところで「現在」っていうことの特徴である気がするんですが、現在の中で、おぼろげではありますが表面の層にある絶えず移りかわって新しさを求めている世界が、どこかで限界というか境界線につきあたり、もう無限衝動はどこかでその線を越ええないという問題に、必ず当面するんじゃないかという予感のようなものを抱かされます。この予感もまた「現在」のとても大きな特徴であるような気がするんです〟

〝歴史的に言えば停滞に過ぎないんですけれども、停滞であるにもかかわらず、とても根本的でかつ本質的で、かつそこはたかが十年二十年で微動だにするものではなく、千年も二千年も経たないと変化しないという文化、あるいは産業、生活の層に身を置く、そういう軸を「アジア的」って形で表現するとすれば、そういう軸と、もうひとつポスト・モダン、超モダンの軸に身を置くという二つの軸に重点を置きまして、そこから眺めると「現在」のイメージはややはっきりすることができるんじゃないかと考えております。その二つの軸では眺め方は反対になってきます。つまり反対の方向というのは、極端な言い方をしますと、モダン→ポスト・モダン→超モダンの軸では、消費の問題をとても大きな要因としてその文化の層を眺めてゆくと考えやすいのではないかと思います。それからアジア的って言いましょうか、つまり千年二千年経ってもそれほど変化しない層で、すこし農耕機械が鍬と鋤にとって代わってもあまり変わりばえがしないところの層で文化を考える場合には、消費っていうよりも、日々繰り返される生活とか日々の繰り返される生産ということをもとにして文化や生活を考える眼を持った方がよろしいので、これもまた混同しない方が考え方としてはいいんじゃないかと思うわけです。 - この二つの軸の方向性を短絡しますと、とんでもないさかさまの理解の仕方が起こってしまうわけです〟

〝東南アジアとかアフリカでは飢えている人が沢山いるのに、こんなところでチャラチャラ遊んでいるのは何事だっていうふうな、そういう倫理観になってしまいます。しかしそれは本当は間違ったものですよ。本当は中間の層を、文化及び理念の層、あるいは制度の層ってものを設けないと、日本のチャラチャラ遊んでいる、つまり消費生活を結構楽しんでいる労働者ってものの在り方と、恵まれないアジア・アフリカの地域の民衆の在り方とを対比するには、中間に理念の層であれ政治の層であれ、社会メカニズムの層であれ幾つかの層を設け、それをくぐらせなければ結び付けて考えることはできないのです〟

〝「現在」という問題を今後たくさんの重なった層と考えて、たとえば個々の人間は自分の生活基盤も文化を考える基盤も、それから社会的な基盤というものも、ある一つの層にあるわけですが、しかし自分の存在基盤である層を、いわばフィクションとして離れ去って、別の層にフィクションとして移り住んで、そこでその層の問題を考えることができるし、また、そこの世界の問題を考えることができる、そしてまた別の層に移り変わって、そこの層の問題もフィクションとして考えることができる、そして言ってみれば、いずれにも重点を置くことがない、あるいはいずれにも同じ重点を置いて考えてゆかれることは、いいことなんじゃないだろうかと、僕には考えられます。つまりそこのところを単層的に決定して結び付けたりすることは、どんな人でも間違えていない人を、見つけることはできないほどむずかしいことのように思われます〟(以上の引用は『吉本隆明講演集4 日本経済を考える』の「「現在」ということ」より。埴谷雄高への批判として書かれた「重層的な非決定へ」よりわかりやすいのでこちらより引用した)

いまなぜ〝重層的な非決定(吉本隆明 1985年)〟か。
農業、農作業というのは(植物工場は別として)天然自然の影響を大きく受ける、農耕が始まって以来変わることのない時間の流れがある。何年もかけて土つくりをするような農業(有機農業)では、何年、何十年というサイクルの、気の長い注意力を必要とする。
一方で、このようなインターネットを利用したり、携帯電話で注文を受けたり、といったことをやっていると、その時間スパンの短さについていけない、というか、農的な気の長い注意力と瞬時的な注意力との間で少々まいってしまうことがある。どちらか一方に浸りきっていられれば、気分はより安定するに違いない。
この両方を行き来しなければならないことをどう考え対応していけばよいのか。この不安定な行き来を否定することもできると思うが、これを肯定的にとらえ止揚することができれば、農園の経営もうまくいくような気がするし、そうでなければそれべしの結果となるような気がする。重層的な非決定へ―
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2015年03月15日

農業のゆくえ

吉本隆明講演集(3)『農業のゆくえ』
日本の一次産業としての〝農業〟を、経済・産業史的な視点からみるとどうなのか。経済・産業史は自然史の延長として、必然的な流れといえるものがある、というマルクスの思想に基づき考察している。取り上げられている講演は80年代から90年代にかけてのもの。経済史・文明史的に言えば、文明が発達すれば産業は一次から二次、二次から三次というように順次高次化していくし、一次産業の比率(就業人口、産業としての規模)は減っていくのが自然(必然)ということになる。また、〝農業〟においても、単に自然任せなやり方ではなく、より高度な技術を用いたものへと移っていく。また、ちょうどソビエト崩壊前後の講演ということもあり、国家管理型の農業がダメだというのははっきりしており、より資本主義的・自由経済的な農業へとなっていくだろうといったことが述べられている。講演において、自給率、就農者数、産業間の農業比率など過去のデータ、当時のデータが挙げられているが、現在のデータを考えてみても、上記のようなことはそのまま当てはまると言える。
おそらく、こういう〝流れ〟を良しとする人もいれば、農業というのは食にかかわる基幹産業であるから、税金を使ってでも保護・振興するべきという人もいると思う。ただ、過去数十年において、日本ではほぼこのような〝流れ〟で来ていることは事実であり、現在の情勢のベクトルを見ても当面はこの方向でいくであろうことは予想できる(TPP問題や農協改革の問題しかり)。
上記のようなことに関しては、ことさら〝新しい〟論ではないかもしれない。ただ、意味的に言えば上記のようなことに集約される論考(講演)であるとしても、これだけでは半分も触れたことにはならない、一見付帯的なようで、外すことのできない重要な何かが随所に埋め込まれている。

この本の後半三分の一は「安藤昌益論」になっている。安藤昌益は、仏教・儒教などよく勉強していながら、独自の思想を作り出している稀有の思想家であると位置づけている。ただ、その思想を追って行っても、「~してはダメ」「これはダメ」という否定ばかりが出てきて、Aもダメ、非Aもダメ、というように〝ダメ〟でないものが全くなくなってしまうということになる。

「精神の深さというところから云って、安藤昌益という人の言い方は全否定のように見えて本当は全否定ではありません。その当時でいえば世界思想を全部学んで身につけたけれども、その中からじぶんが取り出しうる深さの概念が通用する世界だけが本当の思想なのだというところで、安藤昌益の直耕という概念が出てきていると思います。
これはいまの農業に限定すれば通用しませんが、「直に耕すところが価値の源泉だ」という意味合いでとればいまでも通用します。文明の進展は、一見するとそういう価値概念から遠ざかっていきます。しかし、これは精神・心の価値概念であって、文明社会の文明の利器・文明の発展、つまり情報産業がどうした、ビルが建ち並んだという文明の進展自体は深さの概念からは遠ざかっていく一方で、これが人類の歴史です。
しかし、精神の概念から云えば、深さというところに価値概念が置かれるかぎり、それはなくなっていかないことになります。そこまで安藤昌益のかんがえ方を展開させていけば、この思想家は日本ではたいへんめずらしい思想家で、もっといろいろな意味合いで追求されていい人なのではないかと思います。」

この講演集が企画されたとき、生前吉本隆明は農業にかんする巻にはこの安藤昌益について語ったものを入れるように言ったらしい。精神の深さ、ということは意味的にとらえることは難しいと言えるし、ことさら農業に結び付けて述べる必要もないといえる。ただ、最後にこの安藤昌益論が置かれることで、この巻全体がまったく違う印象のものになると思える。前半は付帯的・潜在的であってぼんやりとしか感じられなかったなにかかが、最後まで読むことで底を流れる一貫した思想として再認識することができる気がする。

posted by 五人坊主 at 23:07| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする