2015年03月15日

農業のゆくえ

吉本隆明講演集(3)『農業のゆくえ』
日本の一次産業としての〝農業〟を、経済・産業史的な視点からみるとどうなのか。経済・産業史は自然史の延長として、必然的な流れといえるものがある、というマルクスの思想に基づき考察している。取り上げられている講演は80年代から90年代にかけてのもの。経済史・文明史的に言えば、文明が発達すれば産業は一次から二次、二次から三次というように順次高次化していくし、一次産業の比率(就業人口、産業としての規模)は減っていくのが自然(必然)ということになる。また、〝農業〟においても、単に自然任せなやり方ではなく、より高度な技術を用いたものへと移っていく。また、ちょうどソビエト崩壊前後の講演ということもあり、国家管理型の農業がダメだというのははっきりしており、より資本主義的・自由経済的な農業へとなっていくだろうといったことが述べられている。講演において、自給率、就農者数、産業間の農業比率など過去のデータ、当時のデータが挙げられているが、現在のデータを考えてみても、上記のようなことはそのまま当てはまると言える。
おそらく、こういう〝流れ〟を良しとする人もいれば、農業というのは食にかかわる基幹産業であるから、税金を使ってでも保護・振興するべきという人もいると思う。ただ、過去数十年において、日本ではほぼこのような〝流れ〟で来ていることは事実であり、現在の情勢のベクトルを見ても当面はこの方向でいくであろうことは予想できる(TPP問題や農協改革の問題しかり)。
上記のようなことに関しては、ことさら〝新しい〟論ではないかもしれない。ただ、意味的に言えば上記のようなことに集約される論考(講演)であるとしても、これだけでは半分も触れたことにはならない、一見付帯的なようで、外すことのできない重要な何かが随所に埋め込まれている。

この本の後半三分の一は「安藤昌益論」になっている。安藤昌益は、仏教・儒教などよく勉強していながら、独自の思想を作り出している稀有の思想家であると位置づけている。ただ、その思想を追って行っても、「~してはダメ」「これはダメ」という否定ばかりが出てきて、Aもダメ、非Aもダメ、というように〝ダメ〟でないものが全くなくなってしまうということになる。

「精神の深さというところから云って、安藤昌益という人の言い方は全否定のように見えて本当は全否定ではありません。その当時でいえば世界思想を全部学んで身につけたけれども、その中からじぶんが取り出しうる深さの概念が通用する世界だけが本当の思想なのだというところで、安藤昌益の直耕という概念が出てきていると思います。
これはいまの農業に限定すれば通用しませんが、「直に耕すところが価値の源泉だ」という意味合いでとればいまでも通用します。文明の進展は、一見するとそういう価値概念から遠ざかっていきます。しかし、これは精神・心の価値概念であって、文明社会の文明の利器・文明の発展、つまり情報産業がどうした、ビルが建ち並んだという文明の進展自体は深さの概念からは遠ざかっていく一方で、これが人類の歴史です。
しかし、精神の概念から云えば、深さというところに価値概念が置かれるかぎり、それはなくなっていかないことになります。そこまで安藤昌益のかんがえ方を展開させていけば、この思想家は日本ではたいへんめずらしい思想家で、もっといろいろな意味合いで追求されていい人なのではないかと思います。」

この講演集が企画されたとき、生前吉本隆明は農業にかんする巻にはこの安藤昌益について語ったものを入れるように言ったらしい。精神の深さ、ということは意味的にとらえることは難しいと言えるし、ことさら農業に結び付けて述べる必要もないといえる。ただ、最後にこの安藤昌益論が置かれることで、この巻全体がまったく違う印象のものになると思える。前半は付帯的・潜在的であってぼんやりとしか感じられなかったなにかかが、最後まで読むことで底を流れる一貫した思想として再認識することができる気がする。

posted by 五人坊主 at 23:07| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2015年02月25日

スマート・テロワール

『スマート・テロワール』の眼目は、私には3点に集約できると思う。
一つは、行政区の再構築(ゾーニング)
二つは、水田の畑地への転用
三つ目は、〝美しい村〟をつくること

一つ目に関しては、筆者は「自給圏」というものを想定し、自給圏ごと、物質循環、産業循環、経済循環(食料の自給、エネルギーの自給等)を追及していくことを提唱している。おおよそ人口で10万から数十万人規模。目安としては、天気予報で区切られるような地域区分。風習や風俗などにおいて共通する地域区分としており、全国的には100から150くらいになるという。これらの規模は、物質・産業・経済の循環の合理性から出されているものだと思われる。現在の行政区分では中途半端(市町村単位だと小さすぎ、県単位だと大きすぎる)ということだと考えられる。

二つ目は、日本は水田過剰状態であるとして、過剰となっている水田(現在ある水田250万ヘクタールのうち100万ヘクタールに相当)を畑地へ転用することを提唱している。供給過剰な米(水田)を維持することの無駄、さらにそれらへ補助金を出すことの無駄、大豆・トウモロコシなどを大枚はたいて外国から輸入していることを考えれば、水田を畑地へ転用してそれらの穀物(およびそれを飼料とする家畜)の自給率を上げることをしたらどうかと。そして、畜産とそれらの穀物生産とを結び付け、合理的な循環型の農業を行う。さらに地域で生産された農産物を地域で加工まですることで、地域に仕事を作る。良質な農産物からは良質な加工品をつくることができるはずであり、既存の食品加工企業に十分対抗できるとしている。

三つ目の〝美しい村〟は、ヨーロッパの農村を参考にして書かれている。数十年前ヨーロッパでも農業の近代化(農村社会からの〝経済〟の離床)や行政区の統廃合などで農村が荒廃した時期があったが、地域の良さ(資源)に目覚め、思い切って行動を起こした農村は〝美しい村〟としてよみがえった。そして、その美しさが観光資源となって仕事を産んだり、エネルギーを循環させる仕組みが地域社会を豊かにしていっているといった事例が載せられている。事例として取り上げられているのヨーロッパの農村は極めて小さな自治体であることから、上記の〝自給圏〟の話の流れからするとわかりにくく感じる点もあるが、景観の上からの都市計画ならぬ〝農村計画〟の必要性をいっていると理解する。

勝手に3つに絞って理解したのだが、1と3についてはことさら目新しい思いはしなかった。2の大胆な水田の畑地への転用という考え方は自分には新鮮に感じた。「瑞穂の国」幻想は捨てろ、と言っている。これはなかなかすごいと思った。
1~3まで、どれをとっても実際にやろうとなると恐ろしく大変であろうことが予想できる。だいたいにおいて人は保守的、とくに田舎へ行くほどそういうものだと思う。石ひとつ動かすのだって容易でないことが多い。ただ、このままでは立ち行かなくなることが目に見えている自治体は多いはず。追いつめられて思い切った行動をとって、結果を出した先駆的〝自給圏〟ができてくれば、世の中大きく変わる可能性もあるのかな?
posted by 五人坊主 at 21:06| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2015年02月10日

ぴけてぃー

低投票率にみられる政治的無関心。保守対革新、どちらでもいいこと。革新が政権をとったところで、保守と対して代わり映えのしないことしかできない、もしくは、なにかしら代わり映えのすることをできたとして、その後により大きな反動の波がくるだけ。それなら「なんとなく保守」のままでも結構。何かしら〝こと〟が起こらない限り、低投票率は行くところまでいくに違いない。それが新しい変化への兆しか、ドン詰まりかはわからないとして。
ピケティ教授が連日新聞に載っている。テレビでもやっている。国会でも取り上げられている。こういったブームのような〝知〟はたいてい一時のもの、本格的な〝知〟とはまた別のもの ― はやりには乗っからない(乗っかれない)、常に「遅れてきた青年」の私はそんな風にまず思ってしまう。それでも彼の書いたもの、言っていることはなかなかストレートで好感が持てる。分厚い本で、「資本」などという言葉が表題にあるが、大したことを言っているわけではないように思う。資本主義・自由競争は否定しないが、富がごく一部の人たちに大幅に偏って蓄積されていくような構造はまずい。極端な金持ち、特に世襲的に資産を保有して、その利鞘で食っているようなやからにはしっかり課税するよう国際的に協調して取り組むべき。各国の様々なデータから富の偏在傾向を実証し、そこから上記のようなことを表明するのが主なモチーフだと思える。研究の書としては、専門家には大変有意義かもしれないが、経済に少しは関心のある人であれば感覚でわかることを大仰に書いているだけ、といえば言えてしまう。学生のころわけがわからないなりに勉強したP.ブルデゥーの「象徴資本」や山本哲士先生の「文化資本」といった奥深い「資本」の世界からすれば、本質的でもラディカルでもない。
それでもなにかしら肯定的な力を感じるのは、自分も単純に現在のような〝富〟の極端な偏在化は気持ちがよくなく、どうにかならないものかという気がしており、そのことを一研究者として実直に語っているからだと思う。逆に言うと、日ごろ目に、耳にする日本の革新系の識者は、どこかイデオロジスティックであったり、ペシミスティックであったり、被害妄想的であったりして、どうも言っていることに力がない気がする。
ピケティ教授一人をスターのように持ち上げるのもどうかと思うが、彼が現在のような経済の流れに対する一つのアンチテーゼの象徴となって、なにかしら変化の動きをつくる力点のようになるんじゃないかという希望を持たせるなにかがる。
翻って、自分は経済・産業構造のなかでは最底辺(1次産業―低所得)に位置しているともいえるのだが、日本のど田舎の、点のような農園の一つが、新しい「農」経営の一つの象徴として、なにか物事を、昨今の「世の流れ」をすこしずらすような作用ができないか― まあ結果としてそうなればいいくらいのもので、当面は綱渡り経営で精いっぱいであるのだが。
posted by 五人坊主 at 22:26| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

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