2015年02月25日

スマート・テロワール

『スマート・テロワール』の眼目は、私には3点に集約できると思う。
一つは、行政区の再構築(ゾーニング)
二つは、水田の畑地への転用
三つ目は、〝美しい村〟をつくること

一つ目に関しては、筆者は「自給圏」というものを想定し、自給圏ごと、物質循環、産業循環、経済循環(食料の自給、エネルギーの自給等)を追及していくことを提唱している。おおよそ人口で10万から数十万人規模。目安としては、天気予報で区切られるような地域区分。風習や風俗などにおいて共通する地域区分としており、全国的には100から150くらいになるという。これらの規模は、物質・産業・経済の循環の合理性から出されているものだと思われる。現在の行政区分では中途半端(市町村単位だと小さすぎ、県単位だと大きすぎる)ということだと考えられる。

二つ目は、日本は水田過剰状態であるとして、過剰となっている水田(現在ある水田250万ヘクタールのうち100万ヘクタールに相当)を畑地へ転用することを提唱している。供給過剰な米(水田)を維持することの無駄、さらにそれらへ補助金を出すことの無駄、大豆・トウモロコシなどを大枚はたいて外国から輸入していることを考えれば、水田を畑地へ転用してそれらの穀物(およびそれを飼料とする家畜)の自給率を上げることをしたらどうかと。そして、畜産とそれらの穀物生産とを結び付け、合理的な循環型の農業を行う。さらに地域で生産された農産物を地域で加工まですることで、地域に仕事を作る。良質な農産物からは良質な加工品をつくることができるはずであり、既存の食品加工企業に十分対抗できるとしている。

三つ目の〝美しい村〟は、ヨーロッパの農村を参考にして書かれている。数十年前ヨーロッパでも農業の近代化(農村社会からの〝経済〟の離床)や行政区の統廃合などで農村が荒廃した時期があったが、地域の良さ(資源)に目覚め、思い切って行動を起こした農村は〝美しい村〟としてよみがえった。そして、その美しさが観光資源となって仕事を産んだり、エネルギーを循環させる仕組みが地域社会を豊かにしていっているといった事例が載せられている。事例として取り上げられているのヨーロッパの農村は極めて小さな自治体であることから、上記の〝自給圏〟の話の流れからするとわかりにくく感じる点もあるが、景観の上からの都市計画ならぬ〝農村計画〟の必要性をいっていると理解する。

勝手に3つに絞って理解したのだが、1と3についてはことさら目新しい思いはしなかった。2の大胆な水田の畑地への転用という考え方は自分には新鮮に感じた。「瑞穂の国」幻想は捨てろ、と言っている。これはなかなかすごいと思った。
1~3まで、どれをとっても実際にやろうとなると恐ろしく大変であろうことが予想できる。だいたいにおいて人は保守的、とくに田舎へ行くほどそういうものだと思う。石ひとつ動かすのだって容易でないことが多い。ただ、このままでは立ち行かなくなることが目に見えている自治体は多いはず。追いつめられて思い切った行動をとって、結果を出した先駆的〝自給圏〟ができてくれば、世の中大きく変わる可能性もあるのかな?
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2015年02月10日

ぴけてぃー

低投票率にみられる政治的無関心。保守対革新、どちらでもいいこと。革新が政権をとったところで、保守と対して代わり映えのしないことしかできない、もしくは、なにかしら代わり映えのすることをできたとして、その後により大きな反動の波がくるだけ。それなら「なんとなく保守」のままでも結構。何かしら〝こと〟が起こらない限り、低投票率は行くところまでいくに違いない。それが新しい変化への兆しか、ドン詰まりかはわからないとして。
ピケティ教授が連日新聞に載っている。テレビでもやっている。国会でも取り上げられている。こういったブームのような〝知〟はたいてい一時のもの、本格的な〝知〟とはまた別のもの ― はやりには乗っからない(乗っかれない)、常に「遅れてきた青年」の私はそんな風にまず思ってしまう。それでも彼の書いたもの、言っていることはなかなかストレートで好感が持てる。分厚い本で、「資本」などという言葉が表題にあるが、大したことを言っているわけではないように思う。資本主義・自由競争は否定しないが、富がごく一部の人たちに大幅に偏って蓄積されていくような構造はまずい。極端な金持ち、特に世襲的に資産を保有して、その利鞘で食っているようなやからにはしっかり課税するよう国際的に協調して取り組むべき。各国の様々なデータから富の偏在傾向を実証し、そこから上記のようなことを表明するのが主なモチーフだと思える。研究の書としては、専門家には大変有意義かもしれないが、経済に少しは関心のある人であれば感覚でわかることを大仰に書いているだけ、といえば言えてしまう。学生のころわけがわからないなりに勉強したP.ブルデゥーの「象徴資本」や山本哲士先生の「文化資本」といった奥深い「資本」の世界からすれば、本質的でもラディカルでもない。
それでもなにかしら肯定的な力を感じるのは、自分も単純に現在のような〝富〟の極端な偏在化は気持ちがよくなく、どうにかならないものかという気がしており、そのことを一研究者として実直に語っているからだと思う。逆に言うと、日ごろ目に、耳にする日本の革新系の識者は、どこかイデオロジスティックであったり、ペシミスティックであったり、被害妄想的であったりして、どうも言っていることに力がない気がする。
ピケティ教授一人をスターのように持ち上げるのもどうかと思うが、彼が現在のような経済の流れに対する一つのアンチテーゼの象徴となって、なにかしら変化の動きをつくる力点のようになるんじゃないかという希望を持たせるなにかがる。
翻って、自分は経済・産業構造のなかでは最底辺(1次産業―低所得)に位置しているともいえるのだが、日本のど田舎の、点のような農園の一つが、新しい「農」経営の一つの象徴として、なにか物事を、昨今の「世の流れ」をすこしずらすような作用ができないか― まあ結果としてそうなればいいくらいのもので、当面は綱渡り経営で精いっぱいであるのだが。
posted by 五人坊主 at 22:26| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする

2014年12月31日

百年の孤独

〝ところがある日、彼女が桃の缶詰を開けようとして指にけがをすると、彼がすっ飛んできて、夢中になって、むさぼるように血を吸いだした。彼女は全身がそそけ立った。
「アウレリャノ」と、気もそぞろに、笑顔をつくって言った。「あんたみたいに性悪な人間は、立派な蝙蝠にはなれないわよ!」
 それを聞いてアウレリャノは自制心を失った。傷ついた手のくぼみにやたらキスをしながら、その心臓のもっとも奥まった箇所を開いて、きりもなく長い裂けた臓物を、苦悩のなかで養ってきた寄生虫を引っ張り出して見せた。真夜中に起きだして、わびしさと腹立たしさのあまり、彼女が浴室に干している下着に顔をうずめて泣くことがある、と話した。-また、飢えのために春をひさぐ小娘たちの首のあたりに振りかけるため、いかに巧みに彼女の香水瓶を盗み出したかを白状した-〟

日本全国に約300名いるマルケス主義者のなかの一人として、いつかは何か取り上げてみたいと思いつつ、何か評するよりはどんな短編でもいいから一度何かを読んでみた方がいい、そんな作家であることは他のマルケストも同意するところに違いない。殊に『百年の孤独』は評しずらい。自分が何か本を取り上げるとすれば、その本の中のどこか象徴的な場面や文章を引用するところを糸口として何か書いていくのがやりやすいと思うのだが、この本は巨大なキャンパスに一面細密かつシュールレアリスティックな描写がなされている絵画のようなもので、どこをとっても隙なく見事に描かれているし、全体を一括して評するにはあまりに大きく焦点を合わせずらい。テーマは、他のマルケスの作品(『愛、その他悪霊について』『これらの時代の愛』『エレンディラ』等)と同様に「愛」と「孤独」といえばいえる。ただ、これらの言葉ほどあいまいで観念的なものはないので、「愛」だ「孤独」だといって評したところで何も言っていないに等しい -この本全体を読み終えたときに初めて自らの中の「愛」や「孤独」という靄に何かが加わるかあるいは変質させるかする類のものだと- そして、この本に限らず、彼の4次元的なリアリズム(マジックリアリズム)と文章・表現自体が、テーマもしくはストーリーとは別に作品に読者を引きつける大きな力となっており、マルケス作品の世界-この世の重力や空気や時間の流れと微妙にずれる独特の世界-に引き込まれそこにとどまることが一種の悦楽となっていく・・・で、どのページをとってもそれら絶妙な表現=世界に浸れるために何か評すること自体が無意味に感じられてしまうということになる。彼の文章の特徴の一つは、ストーリーやテーマからすると重要にに思われるような場面でも、どうでもいいような場面でも、同じような比重で描かれている(というよりむしろどうでもいいようなことを執拗に描写したりしていることが多々ある)ことにある-それは、彼が本を書くモチーフが、ストーリーやテーマを描くことより、むしろ描写そのもの、文章そのものをいかに描き組み合わせ、匂い・光・郷愁・悲哀・絶望などの感覚を立ち上らせることができるかという点にあるとさえ感じられる(『族長の秋』などはその傾向が一層強いが)- というわけで、適当に目に留まった文章を2つ引用することで、うかつに始めてしまったこの本の評に切をつけることにしよう-
と思いつつ。十数年ぶりに『百年の孤独』を読み終えて、イメージが消えてしまわないうちに何か書かないとと思い、思いつくままに書いてみたものの、信州大学農学部ロシア文学科を卒業したものとして、これでは全然言い足りていない気がしてきた。吉本隆明の『超西洋的まで』のなかに「ドストエフスキーのアジア的ということ」という評論がある。吉本隆明は、ヘーゲル-マルクスがしめした、制度-経済(産業)様式の発展段階としての〝アジア的〟という概念を、自分なりに〝心-信の構造〟とでもいうようなものとして敷衍していっている。ドストエフスキーの描く世界は、当時の西洋的知の前線から、ミール共同体的な後進性を引きずったロシアの人間模様・心的有様を描いていると言え、そのような人間模様=アジア的人間模様においては、西洋的先進性からすれば無知蒙昧がはびこっているといえる一方で、不可解ともいえる〝偉大さ〟が共存している点が吉本隆明によって指摘されていたように記憶する。西洋的知の最前線からマルケスが描くコロンビアやベネズエラの風土を元にしている世界は、まさにこのような〝無知蒙昧〟と〝偉大さ〟が混然としたものとして作られている。それが〝アジア的〟といえるかどうかは別として、マルケスは、先進西洋性がとりこぼしていってしまったもの、結果として人間存在の〝偉大さ〟を細らせていってしまったものをアイロニー的に描いているともいえ、〝超西洋的まで〟という言葉で吉本隆明が表したかったモチーフと重なるところがあるように思える-
引用をしようといくつか適当な箇所を書いてみたものの、部分をとってきてもどうもあまりよくないので引用はやめて、また気が向いたときになにかしら書き足していくことにします-

posted by 五人坊主 at 21:56| Comment(0) | 日記 | 更新情報をチェックする